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おもに少年愛と小説に関する雑記。エッセイとコラム
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エヴァ劇場版見てきたよ
 えっと、結論から言えば、くやしいけど大変よいできだった。

 何がくやしいかっていうとつまり、予告のストリーミングなんかを見る限り、作画のやる気のなさっていうか、没個性っていうか、そんなのがありあり感じられ、つまりは壮大な駄作の可能性を感じていたワケである。

 ならなぜ観に行ったかと言えばあら探しに……ではなく、映画が昔の二本の映画のリメイクではなく、TVのストーリーの頭からやっていくということで、それなら、そこはTVでできなかったことをやってくれてるんじゃないか、それを大画面で見たいなと。

 詳しい感想もどきに入る前に、まず確認事項。
 今なぜ、リメイクするのか、ガイナックスの懐具合以外の必然性と、作るなら、やるべきこととやってはならないことがあるはずということである。

 TV版は言うに及ばず、二本の劇場版まで通して見ても、わけのわからない、よく言えば奥深い謎、悪く言えば制作者の独りよがりが、とても「気持ち悪い」まま過去のエヴァは終結してしまっている。
 これについて、ファンの解釈が様々に拡がるのはいいとして、制作サイドからのもう少しつっこんだ解答も聞いてみたいという視聴者は、ある程度いるはず。

 そして、TVの帯アニメとしては破格のクオリティであった旧作ではあるが、TVアニメ制作の現場は台所も時間も人数も厳しくて、当時のスタッフも納得いかないままに出してしまった回、場面が多々あるはず。あるいはアイデアとしてあっても、とても無理でひっこめたものとか、エピソードそのものも、ざっくりお蔵入り、なんてあったかもしれない。
 これらについては、再制作する意味が十分ある。シトとエヴァの動き、デザイン、戦闘などは、劇場映画のスペクタクルにもってこいではないか。

 大きく言ってこの二点、コアなファンほどに、いや、物語の解釈は僕の中では完結しているんだ、「気持ち悪い」って言われて全て終わったとすっきりしたんだ、当時のテレビのあのクオリティはすでに到達点で、二度とない個性なんだ、作り直す意味なんかないんだ、とかいう立場の人も、多そうに思う。
 そのような方々には、これは何を作っても無意味だから、観に行く意味はない。

 けど、俺の場合、上記二点には大変興味があった。だからテレビ版の頭から追いかけるなら、作画のまずさに目をつぶって見てやろうと思ったわけだ。

 で、やるならば、重要なのは、多数のファンを魅了した旧作のアイデンティティ、つまり雰囲気、ノリ、作画、キャラクター、音楽、演出……などなど、それがまさにエヴァでなくては、旧作ファンに石を投げられるだろう。
 その上で、今だから、劇場だからできることを、いかに盛り込んでいくかである。ストーリー上の補完もさることながら、ビジュアルなどの面においても、プラスアルファがないんだったら、やっぱり作る意味がない。旧作が優れているだけに、どこまで何をやるか、非常に難しい仕事になるはずのものである。

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チャカ型ライターで遊んでいた高校生を平手打ちした巡査長が傷害罪で現行犯逮捕
 あ!?
 ソースのニュースを見る限り、巡査長に悪いところは一つもなく、むしろ警察官として正義感の強いまっとうな人であったように思われる。実際に傷害罪を適用したとすれば、狂気の沙汰。この社会は病気である。

 しかしである。
 俺個人、生活していて、子どもに注意しにくくなったとか、まっとうなことで子どもを叱って非難されるという実感は、実は全くない。
 中学生ぐらいが数人だと、逆襲されたら負けるので、ちょっと言いにくいが、それ以外は俺は辛抱もしないし、注意もする。ただ、殴ったりはしたことはない。それ以前に決着がつくからだ。

 狂った親が増えている現実はあり、ささいなことで被害届を出すケースは確かに多いようだ。しかし大概は、相手にされない。

 教師が子どもを殴れないいから子どもが学校でやりたい放題をやっているというのも、事実に反する。体罰をふるう教師も現存するし、場合によっては子どもはそういう教師をおそれて萎縮している。

 俺はマスコミをかなり疑っている。この件だって、もしかしたら高校生のやってたことは取るに足りないレベルで、警官はべろべろで真っ赤な顔で、鼻血が出るほど殴ったのかもしれない。ネタとして面白いように、彼らは平気で記事を捏造する。

 この記事にくっついてるコメントや言及ブログも、高校生の味方は一件もない。総攻撃、警官は100%擁護である。そうなるに決まっている。それほど、誰一人納得できないおかしな出来事が、実際に起こるものだろうか。警察が警官を逮捕するのはよほどのことなのだ。

 今の時代は、ニュースを読むのにこのくらいひねくれた視点は必要である。

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女性監禁事件ですか
 「太陽と教室」の時はわざとあの時期狙ったんだったか、ちょっと記憶が定かじゃないけど、WEBで「子ども部屋」連載、今度の本の小説も、それ系のネタ。タイミングがなあ……。
 まあ小学校の教室に乱入とかと違って、女性の監禁、レイプといった事件は、(おそろしいことに)ありふれた事件ではある。うちの生活圏内のマンションで、連続監禁魔が逮捕されたのもここ一年くらいの事件じゃなかったか。

 ついでに言うと「監禁飼育」ネタのAVはありふれている。「コンクリート詰め殺人」を意識したものも一時何本も出たようだ。

 話は変わって、ぐっとまじめなことなんだが。
 驚いたのはこの、犯人の自殺未遂男性、「これまでに強姦(ごうかん)と逮捕監禁容疑などで5回逮捕。このうち2回は実刑判決を受けて服役し、今年5月に出所したばかり」なんだって。何でシャバに出られるのこの人? 日本の刑法どうなってるの?

 性暴力事犯で一度実刑打たれて、出所してまたやらかしたってことは、この人、刑務所に入っても性癖治らなかったし反省もしなかったということ。もう一側面は、刑務所の「更正プログラム」は効果がなかったということ。
 病人を、治ったか治ってないかの診断すらせず退院させる病院もないだろうし、刑務所の役割ってのは何なのか。

 警察があったり、悪いことした人を刑務所に入れるっていうのは、第一義は犯罪者自身のためではなくて、何も悪いことしてない人ができるだけ安心して住める世の中にするっていうことだろう。つまり治安維持。

 人を犯すかもしれない、殺すかもしれないって疑いが極めて強い人を、刑期が済んだからハイ出所では、どうにもならないと思う。
 殺人やレイプについては、少なくとも二度目の実刑ともなれば、出所時に様々な立場の専門家の審査でも経て、ゴーサインが出なければ出所できない、とやっても、まさか「犯罪者にも人権が」とか言い出す人もいないと思う。

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表現規制についての考え方
 この際だからまとめておくぞ。

 まず、
 実行方面は論外。論外というのはいけないとかじゃなくここでは論の対象にしないということ。
 次に
 三次元(被写体がいる写真、動画、ビデオ)も論外。次元が違う。話がややこしくなる。なのに一緒にする人が多いため。

 まず、勝手に絵を描くとか、文章書くとか、その次元において何かを禁止する権利は、何人にもない。うんこ食おうが親殺そうが、幼児に精液ぶっかけようが勝手。不快に感じるのもやむをえないし、勝手。これを禁じるのは他人のオナニーのおかずに口出しをするということになる。
 これには百人中九十九人は賛成しそう。

 しかし表現というのは、人に見せるものである。しかも相手は不特定である。ここに、規制の必要性や公の介入の口実が生まれる。

 しかしテレビのように、「見たくもないのに見てしまう」ものではなく、成人指定があり、金を払い、見たい人だけが見る表現物に、規制など必要なのか、あるいは、許されるのか。

 俺の考えは全てにおいてNOである。最初にややこしくなるものは除外した。従って絵や文章の話だ。
 対象が大人だろうと子どもだろうとレイプも殺しも倫理的にも刑法上も許されない。見た者が悪影響を受けるというなら、それは性的なもののみならず、犯罪翼賛的なものや自殺肯定的なものは、全てよくない。児童ポルノだけを特別視する根拠は、どこにもない。
 さらに、暴力や過激な性表現が、人を実行に駆り立てる悪影響を与えるというデータはなく、これは将来も絶対に証明されることはない。実験室的データは、この場合無意味で、また実社会の調査では多様すぎる他要因の影響を排除できないからだ。俺は実際は多少あると思っているが、それはしょうがないんじゃないか? 親の一言でグレることだってある。多少ってのはその程度の意味。それをもってあらゆる表現を規制するか?

 提供する側と受け止める側の利害が一致し、(現実に生きる)誰も傷つけない表現活動を、規制する権利など誰にもない。

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ビデ倫強制捜査
 以下引用。

調べによると、制作会社は適切な画像処理をしていないアダルトビデオを販売した疑い。同協会は適切な審査を怠り、通常よりも羞恥(しゅうち)心をあおるような内容のビデオの販売を助けた疑い。

 「通常よりも羞恥心をあおるような内容のビデオ」……通常って何だよ(笑) まったく愚劣滑稽の極みである。
 ビデ倫はそもそも業界の自主規制審査機関の一つであって、法的な執行能力を持っているわけではない。ただしある程度の権威づけをここで行うことによって、司法が一個一個の作品に介入しては表現の自由の幅を狭める、ひいては業界の発展を妨げることを食い止める狙いがある。

 こうした機関に、苦情や意見、やんわりとした圧力とは異なる、「強制捜査」が行われたことは、おそらく日本でははじめてのことで、ゆゆしき事態と言える。

 さらに、とあるDLサービスサイトからのメールの一部

 (自主的な修正などが)徐々に緩やか傾向になってきていることに対して、全体意識が薄められると摘発が起きるという歴史的繰り返しがあります。

 確実な修正を行っていくことで回避できる問題、とこのDLサービスは述べておりまた、ビデ倫捜査の根拠も、被写体、内容うんぬんではなく、

 これまでモザイクが必要だった「ヘア」や、モザイク消しの範囲を狭めるなど、新たな基準を導入

 これが鍵になっているようだ。

 先日述べたばかりの司法のパワー誇示側面をもつわいせつ規制、ここは大人しくうつむいて黙っておくに限る。修正云々から波及して、二次元やフィクションの内容、つまり対象年齢や嗜好の過激さにまでごちゃごちゃ言われるようになったら大変だ。最近やばめだな、ってのはショタイベントですら、俺自身感じていたし、炉系はなんかすごいことになっている。目立ったらやばい。二次元だから、フィクションだからいいじゃん、ってのはこっちの理屈であって、だから。
 

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親友なんて言葉
 やたらに親友という言葉を使うのはどうかと思ったりお前恥ずかしくないかと思ったりするのは、むしろこの言葉に甘美な印象を抱いているせいかもしれない。

 当時は互いに俺達親友やね、みたいな言葉を交わしたことはないが、振り返るに親友だったと思える友達は、少年時代常に一人いた。
 小学校時代、至ってできのわるい(勉強できないとかじゃなく「あの子とは遊ぶな」って大人が言うようなタイプね)子どもだった俺と、いつも一緒にいて、話して遊ぶ子というのは、常にとてもできのいい子だった。すごく頭が切れるか、優しくて活発でユーモアのある人気者か、そんなのがいろいろ重なっているか、だ。
 休日も毎週、二人で遊んでいたから、別に教師が気をつかってくっつけたとかの類ではない。まあだいたい教師には嫌われていたしね。白紙作文とか答案、何回出したことか。
 で、小学校高学年の頃、その「親友」だったらしき男というのは、なかなか変わっていた。勉強はすこぶるできて、顔もバタ臭い男前だったが、女にはあまりもてなかった。これは性格のせいで、「俺様」「天才」を真顔で言う男で、資産家の御曹司だった。
 だが五年生の頃、掃除時間に階段の踊り場で六年生二人ととトラブっていた俺の前に一人で立ちはだかった姿を俺は忘れない。口だけではない中身のある少年だった。また気に入らなければ相手が大人でも一歩もひかず言葉をかわし、けんかした。

 毎週のように彼のでかい家に呼ばれて遊んでいたある日、彼に「義兄弟の契りを結ぼう」とかなんとか言われて、指をカッターナイフで切られそうになった。かなりびびって断ったが、結局切るはめになったかどうか、もう覚えていない。でも、「自分で切るにゃったらいいけど」と返事した記憶が……w 要は紙の上に互いの血を出し、混ぜ合わせて互いの出血した指でそれをこすることで、互いの血を体内に入れる、ということだったのだが……。
 姿を見たことはないが、彼は厳格な父親をおそれていた。もしかして親がその筋の人だったんじゃないかと、今にして思うのだが、まあきっと、彼がわりと早熟にそういう世界にあこがれていただけだよね。

 念のため、彼にはこっちの気はなかった。なかったはずだ。カッターで切られそうになったその時以外、人に言えないようなやばい目に遭ったこともないし、ナニ触られたとか脱がされたもない。だいたい俺がそういう対象になるようなタイプではなかったし(笑)

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耽美と露悪
ふい、忍者システムやっと復活。バックアップとらにゃ
 
 創作においてリアリズムというのは、どうしたって一定大切なものであると思う。物事の実像を細かく正確にとらえて表現しないと、何か幼稚なものに仕上がるのは避けられないからだ。これはたぶん絵でも同じじゃないかな。

 でもただリアルなだけじゃやっぱりつまらないっていうアンチテーゼもある。
 俺は推理小説ファンなんだけど、社会派系列は嫌い。松本清張以外はほとんど評価に値する作品を知らない。社会悪を抉ってバッドエンドって、カタルシスを得るためにこっちは小説読んでるのにね。マゾじゃないっての。
 それ故に人物のディテイルが甘くても、絵空事でも、横溝正史が一番。島田荘司、綾辻行人。ミステリは夢でしょ。

 純文学では、三島由紀夫はやっぱり至高。彼がすごいのは、実際には醜いかもしれないものすら、(実像を誰よりも抉りながら)美しく描くことだ。「春子」のレズビアニズム。「禁色」ではかなりきわどいが「仮面の告白」の男色。ことに男色やナルシズムの彼の理解はかなり深いものと思うが、もしかしたら実際は吐き気を催すようなものかもしれないものを、彼は美しく描く。そしてリアリズムや精緻な観察眼は忘れていない。

 重松清の「疾走」のような露悪趣味は、これらと好対照をなす。実像をとらえず、ただ刺激を求めて汚らしい表現をし、そのインパクトで読者をとらえようといういじましさ。それでいて自分は健全な価値観を背景にしているという潔さのかけらもないポーズ。自覚があればたまには自己嫌悪に陥るだろうが、たぶん鈍いのだろう。

 偽善や虚像がもてはやされ批判しにくいムードと、表現にモラルをかぶせないと「表」現なのに表に出しにくい鬱屈したムードが、今はメジャーな表現のステージに満ちているように感じる。
 それ故に、サブカルや地下表現が無限に広がっていくのだろう。この世界はインターネット同様玉石混淆で9割は「石ころ」かもしれないが、自分にとっての「宝石」はたぶんここにしかない。

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更新情報もあるけどいろいろ
更新情報も含まれていますがいろいろ書きます。

 「ちびっちょばなな」のちょこばななさんからいただいたリンク記念イラストを裏にアップしました。素晴らしく濃いので(笑)ぜひ裏に入れる方はご覧下さい。

 最近、裏のあり方についてはちょっと考えています。実写と、自作コア小説作品と、切断などの紛うかたなき鬼畜モノイラストを裏にして、あと表でもいいのかとか……。しかし頂き物イラについては、盗用がこわい。なにがしかの制限をかけるかですね。Javaスクリプトかなんかで右クリック保存は回避できると聞きますし。

 それから、HP更新やPCまわりで困ってることが最近二点。
 DreamWeaverとかいうソフトを使ってるんですが、これがしじゅう「メモリ不足」っていうワーニングを出します。でも大概、無視して作業し続ければ問題ないし、突然止まることもありません。うちのPCメモリ2GB積んでます。動画や3Dモデリングならいざ知らず、JPEG画像程度しか扱ってないHP編集でメモリ不足はあり得ないと思うのですが。
 あとテキストは、テキストエディタで作ってこのソフトに流し込みますが、段落頭の一字落としに、必ず余計な半角スペースが一個入ります。日本人をなめてんのかこら。
 うんざりなんだけどビルダーは重すぎて引導渡した経緯があり……。あとの候補はフロントページか? あれいいんですか? どなたか情報下さい。

 あとWINDOWSそのもので、最近、ファイルのソートが自動で効きません。何がきっかけか不明ですが、普段のフォルダ操作で「自動整列ON」「名前順」にしてても、フォトショやこのブログのファイルマネージャなど、さまざまなものでフォルダを開くたびにファイルの順番がめちゃくちゃになっていて、いちいち手動でソートしないといけません。わずらわしいことこの上ない。なんとかならんでしょうか。

 というわけでいろいろでした。

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スミ塗り
 「無間」ゲストの方から、ぞくぞくとイラストをいただき、いよいよ編集真っ盛りなんだけど、今やってるのが、スミ塗り。修正ってやつね。
 はっきり言ってちんこの描いてない絵は皆無なわけで(笑)、さて何本塗ったやら。
 どなたかがハードエロとギャグは紙一重みたいなことおっしゃってたけど、この作業はマジで滑稽。
 だいたい、わいせつだから売っちゃいけないものが、ちょっと局部を黒く塗るだけでOKになるってのも、ほんとはこれ自体滑稽な話だ。
 これは要するに、権力が表現に介入できるということのお印であって、表現者は権力にひれ伏すあかしにちょいとスミを塗る。だってこれでわいせつなものがわいせでなくなるって、誰一人思わないでしょ?
 もうちょい柔らかく言えば、野放しにはしていないというお上の体面と、表現者の妥協点だな。滑稽だけど、オールオアナッシングで潰されるよりはるかにいい。日本人は賢いね。

 あ、自分の塗ってない……。

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弟子になるとか習うとか
 広告をどうせ貼るならベタ貼りしまくってる今日この頃だけど、ふと見ると、「ライトノベル作家になるなら」というタイトルで、○○先生という誰だかわからない人の直接指導、とある。クリックしてみたい気はやまやまながら、これをやると特にgoogleは、(たぶん)二回目の検知でアカウント停止、二度と同じ名前や銀行口座ではadsenseに参加できない。何か直接クリック以外にリンク先を見る方法はあるみたいなので、時間のあるときに調べないとな。

 閑話休題。
 で、ライトノベルは習って書くものなのかどうかって話。俺自身は、(だいたいプロでもないけど)誰にも文章を習ったことはない。小学校だって、読み書きの段階以降は、作文だって勝手に書いて勝手に提出しただけで、赤字のコメントは内容についてであって文章を練るようなアドバイスをもらった覚えもない。

 しかし文章は習わないものなのかと言えば、そうでもないようだ。例えば俺のはまってるカミタマンなどの脚本家浦沢義雄氏は、確かなんとか言う脚本家に「師事」していたとどこかで読んだ。しかし、これも文章の書き方を習ったのかどうかはわからない。
 プリントやグラフィックの世界は、身近にプロがいるので知っているが、弟子になり、今風に言えばアシスタントとして誰かに師事すると、何をするかと言えば筆や筆洗を洗い、煙草を買いに行き、先生を飲み屋に車で送り迎えしたりする。……いやほんとなんですよ。絵の描き方なんて誰も教えてはくれない(デザインスタジオなので先輩はいっぱいいる)。しかし、一流のプロの作業が間近で行われている。筆一本で稼いでいる人間の会話が耳に入る。自分で描いたものは、ボロクソに言われたり鼻紙に使われたりし、ごく稀に褒められる。アドバイスは、まずない。先輩から見れば、ペイペイも将来の商売敵だ。肝心要のことは絶対に人に言わない。
 実はここから先が肝心で、最高のプロは最高のツテを持っていて、そのスタジオから独立することは、そのツテを根こそぎシェアさせてもらうことにつながる。それに修業時代のコンクールでは、当代随一のプロの門下は、非常に有利なのだ。師匠が審査委員長であって、「これええやないか」と一言言えば賞が決まる場合もあるのだ。ずるいと思われるかもしれないが、皆に認められている最高のプロは立場上いい加減なものは推薦できない。コンクールに出す前に破られるのだ。同レベルのライバルがいた場合有利であり、また全くバックアップのない個人は、参加権もないといったところだ。

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