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おもに少年愛と小説に関する雑記。エッセイとコラム
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うまくなるには
 たまにですが、「文章うまくなるにはどうしたらいいんでしょうか?」みたいな質問を受けることがあります。
 僕がそういう相談相手にふさわしいかどうかは、相手の方の判断ですが、だいたいは、

 「今のままで十分ですよ」と答えることにしています。

 これは冷たくかわしているのではなくて、実際問題、文章について向上心を持っている人は、書きたい文章が要求する最低水準はすでにクリアしていることが多いからなんですよね。

 で、向上の余地がないかといえば、それはもちろんある。で、それは人に聞いたってあまり意味がないっていうことなんです。

 強く書きたいと願うテーマがある→世の中にある、本やそれ以外のもの全てから、テーマについての「言葉」が脳に集まってくる→書くものにそれが反映される→書いたものが次への糧となる(本や世の中を見る目が成長している)

 つまり、「読んで書け」「書いて読め」「知って書け」「書いて知れ」です。

 このスタートラインは「強く表現したいものがあるか」にかかっていて、それがあれば自動的に上記のような連鎖反応が起こります。なければ、アドバイス以前の問題です。

 それで、「うまくなるには」を聞く人には、上記のように言うわけです。言ってることがほんとなら、勝手に書きまくり、勝手にうまくなると思うんですよね。

 だから文章の専門学校とか、どうにも疑問です。ハウツー本も疑問。だって文章で書いてためになるような小説の知識って、中学校の「国語便覧」の関連記事数ページで十分ですよ。

 でも絵は、違いそうですね。習えることがたくさんありそう。……と思うのは、僕が絵の世界をよく知らないからだけ、でしょうか?



P.S.
Twitter始めてみました。続かない予感w
ID:torisanx

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山田悠介
 「レンタルチルドレン」の作者です。萌え内容を予測させておいて裏切りやがって……w
 というのはさておき、純粋によく売れているということ以外で、この方文章の稚拙さにおいてかなり評判らしいですね。

 僕は実は、ちゃんと読んだことありません。期待できそうもないし、気力と時間があれば他のことをしますよ、ということで。

 ただ、いくつか抜粋して指摘されているおかしな文を読むと確かに気持ち悪くて、時々意味不明のところもあるので、自費出版ならではの出世、今風の人だなあ、と思います。

 一番気持ち悪いのは助詞や活用語尾が明らかに間違ってるやつ。
 
 人々の歓喜とため息が交差している中、首相官邸内の閣議室では、ある結論が出ようとしていた

 全体的に駄文である中、日本語にしようとするなら、せめて「結論が出されようとしていた」です。

 二人の大学生が海で行方不明になった事件はこの時期にはよくあることで、視聴者も「またか」ぐらいしか思わない。

 ねじれてないだけましだが、実はこの前段で二人が行方不明になったことは書かれている。従ってくどい。かつ、「なった事件」としてしまうと、特定の事件を指してしまう。
 何とかするなら「このような行方不明事件はこの時期にはよくあることで」くらいか。

 ただし特定の時期に行方不明事件が多発する国というのは日本以外でもよくは聞かない。

 その他、猛暑で各地の海岸が海水浴客で賑わっている中サラリーマンは汗を流して道ばたを歩いているというような描写があるが、賑わうほど海水浴客が来るのは、一般的なサラリーマンの休日である。そんな日にも汗水垂らして働いている人はあるが、それはむしろ特殊な勤務形態か残業づけの人で、子持ちの普通のサラリーマンではない。

 つまりこの方、社会や人物に関する認識もいささか幼稚もしくは乱暴である。

 と、ここまでは書いたけれど、あいにく2chのスレッドでも山田氏を鋭く斬れている方は一割に満たず、むしろ自らの日本語力と社会的認識の拙さ幼稚さを露呈しているというのが痛いですね。

 それだけ日本語って難しいんでしょうし、2chに張り付いてカキコしている方々に社会的認識を期待してもね。

 まず長編を完結させ、自費出版で世に出そうとした一念と行動力は、賞賛すべしです。
 それから、「日本全国の鈴木さんを狙ってうんぬん」とか「レンタルチルドレン」にみるキャッチコピーとしてタイトルとして人を引きつけるアイデアもしかりです。

 それでも僕は、気持ち悪くて絶対最後まで読めないと思いますけど、RPGの戦闘メッセージみたいな会話の羅列とか、完結しないまま次々新作がならぶ巷間にあふれる携帯小説とは一線を画すどころか、レベルが違うとは思います。

 「小説家」の能力とは文章力のみにあらず。文章力が一番でもない。漫画で考えてもられば。漫画家で絵のうまい人って一握りですし、「大家」にもヘタな人の方が多いくらいじゃないでしょうかね。プロデュース能力とかアイデアとか個性が、重要な才能でしょう。

 小説の話に戻りますが、僕が最近読んでいる泉鏡花は、文章の力で、きらびやかに描かれる光景こそ魅力で、ストーリーはさして重要ではありません。でも、拙劣な文章で一世を風靡した作家も多いですよ。
 石原慎太郎もそうです。芥川賞だし、売れたし、映画にもなってます。けど太陽族の生き様なんて今わずかでも共感する人がいるとは思えません。お金持ちのおぼっちゃんが、安全圏でやんちゃしているだけです。つまり社会性においては、極めて限られた短い期間においてのみ、人心を熱狂させたに過ぎません(それが価値がないとは言いません)。文章も拙劣。

 さらに過去。私小説というものは、それ自体日本独自のもので、まさに個人的で「世に問う」ほどの価値に乏しいものが多いですが、田山花袋の「蒲団」あたり、視野のせまさもさることながら文章もひどい。でも売れました。

 今は後世に連なる一般性を持った芸術の生まれにくい世相で、音楽も、「一瞬の輝き」を得ては消えていくものが、膨大に次々に、生み出されています。
 そしてその一瞬の輝きにも、歴史に残るマスターピースに劣らぬ価値があると僕は考えます。

 で、実は山田悠介さんの作品、「それでも読むに耐えない」と僕は思ってるんですよw
 でも、好みの問題。今はなんせ、何かが流行ったらそれが権威ってことはなく、それぞれの好きなものを選んで追いかけられる時代です。ジャリタレの類だと思えばいい。ジャニーズの子らって、大半が歌ひっどいじゃないですかw 彼らの歌のヘタさ加減とか演技の大根さ加減を、皮肉りはしても本気で怒るようなことじゃないでしょう。芸事をなめてるのかとかね。
 そこらを踏まえた上で、面白おかしく叩くには、確かにネタの宝庫かもしれません山田さん。

 宮殿では朝食の時間を迎えており、メイド達が次々豪華な料理を運び出していた。それは朝食とは思えないほどの豪華さで一般市民がこの料理を見たらこれが本当に朝食か? と目を仰天させるに違いない。

 ……これから食事なのに運び出したんかい(笑)
 目を仰天させたのか、映像で見せてくれそれw


乾燥肌の人がつくった化粧品屋さん

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重松清の嘘
 いずれどこかで、書こうと思っていたことなのですが、たまたま先日のオフ会で話が出たので。

 僕は「疾走」なる本をハードカバーで買って読みました。主人公幼時の、やくざもののトラックに乗せられて走るシーン。目に浮かぶビジョンとしてとても好きです。そうした才能を認めないものではありません。

 仕事が多忙になって前半三分の一で中断し、半年後に残りを一気に読んだのですが、すぐにゴミ箱に投げ捨てようかと思いました。

 この不快感の正体は、作者重松氏が、あちこちの教育講演会の類に出てると最近聞いて、だいたい明らかになりました。

 少年も含め、人の心に潜む闇、醜さ、一方闇夜に光る一匹の夜光貝のように見つけにくい崇高さ。

 これらを描くために、醜いものを目をそらさず正しく見つめタブーなく描くのは、アーティスト、創作者として正しい態度です。
 しかし、こうしたものを刺激を狙って誇張し、しかも誇張の元が正確でない。つまり人の心の闇など、全く見抜けていない人間がこれをやると、吐き気を催す醜さのみ誇張され、アートとしての存在価値などないのです。醜聞で売る夕刊紙、ワイドショーと同じです。

 重松がもし、真摯に人間の醜さ、真実、少年の心の痛みに寄り添い、正しく理解しようとしたなら、絶対にいずれかの「体制」に傾くような教育講演会などには出ない。文学をもって何かを訴えるはずです。でないと、創作に確実に雑音が入り歪みが生ずる。

 この態度こそが、重松氏がいかさま師であり、おもちゃにしてはいけない重みあるものをおもちゃにし、飯の種にする偽物の創作者であることの証左です。扱うその題材が少年性に傾斜していることがこの上なく不快です。

 ショタ系趣味の方には重松ファンも多いようで、なぜ僕がボロクソにいうのかは、飲みの席ではなかなか、って部分もあるんでまとめてみました。本当はキリスト教に関わる部分も重要なんですが、話がまとまらないのでそこは省略。


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博覧強記は世の誉れ
 眠いだるい。かなり調子が悪いが、イベント行けるのかな……。そしてサークルリストはまだか。

 今日はしんどくて長い文章書けないので、だいぶ前に書いたメモ引っぱりだしてきた。

 博覧強記とは、要するにたくさん本を読んでいろんなことを知っている「物知り」を指す。
 文科省が「生きる力」とか「変化への対応」を言い出す以前から、どうもこの言葉、あまりいい意味で使われなくなっていた。とある公務員採用試験の宣伝文句「ペーパー秀才はいらない」とかね。

 しかしよく勉強することは極論、「知識の量を増やすこと」だと俺は思う。そしてそれは価値あることで、よく勉強して博覧強記たり得た人は、尊敬に値し、多くは社会に有用である。
 ペーパー秀才で、実践行動力に欠けるなんてことはない。受験生の暗記なんてものは、どこまで行っても「知」の観点からはママゴトに過ぎない。本当の知識は、膨大な量を蓄積することによって生き生きと躍動し始めるのだ。

 前ふりが長かったが、子どもが小説を書くことはとても難しい。たぶん絵より難しいと思う。物語を展開するのには神のごとき視野を必要とする。たとえ小学生ばかりが登場する物語であっても、小学生自身が持つ世界は甚だしく狭く、「幼稚」な人物造型、筋書きににしか、なかなかならないだろう。詩なら、大人が読んでもはっとするようなものを書く子は、ぽつぽついるものだが。
 さまざまな小説サイトを見ていて、やっぱり知識量は重要だと思わずにいられない。
 文章の巧拙は、文意がねじれる、意味不明とかいう次元でなければ、いい小説の絶対的な要素ではない。
 しかし「大人」レベルの、そこそこ以上の知識は、絶対に必要。これがないと、説得力のある世界を構築できない。幼稚と感じる文章は、知識の裏打ちがない。
 性別、年齢、職業、生育歴など様々な条件によって人間のパーソナリティは規定されるが、登場させたいあらゆるタイプに出会うことはできないし、職業だってそうそう何種類も経験するわけにいかない。女になって男を愛するわけにもいかない。
 そんな時も、映画や本に出てくる人物が役立つだろう。

 生身の出会いから得られる世界は、誰しもわずかなもの。しかしこれが創作における個性と自分だけの世界の源泉であって、本や映画や、様々なソースから学習して蓄積した知識が、この世界に無限の広がりを与え、他人を説得する客観性をも付与してくれるのだと思う。

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文章力向上
 体中痛いな。ちょっと運動したらこれだ。寒いのは平気だけど天気悪いのでちょっと外に出る気力もなく、むなしく過ぎた日曜日。

 今日は文章について最近考えてることを、比較的しっかり整理してみた。

 文章がうまくなりたい、とか、小説を書く人なら、思わない人は(ほぼ)いないだろう。自分の今いるステージに関わらず、誰だって上は目指したいものだ。うまくなくてもいいものは書けるとしても、技術は邪魔になるものではない。

 しかしこと創作物(小説、イラスト、漫画など)について言うなら、実際には技術は二の次であって、作品の価値、魅力とあまり関係ない場合も多い。大衆娯楽作品にはその傾向が強いと思う。

 その上でも、最低限必要なものはある。「読むに耐えない」という領域を超えるために、文法、最低限の語彙、文章の作法や原則、といったものを、身につける必要がある。以前文章巷談1で述べたように、ここを超えていない小説が、WEB上には溢れかえって多数派でさえあると言えるのだ。

 ではどうすればそこを超えられるのか。

 これについては、「問題意識を持った瞬間に超えられる」と断言する。もちろん通常の高卒程度の知能知識はある前提である。まあ抜き打ちで、中学校の定期テスト五教科で平均60~70点とれるくらい。意外と厳しい基準なんだこれが。無論苦手はあっていいが、国語は60点割ったら問題外。社会も極端に苦手は困るけど、これはまあ、教科書が実生活のニーズとずれてるんでねえ。

 大部分の前述ヘタレ小説の書き手は、自分の小説が最低ラインをクリアしていないという自覚がないと考える。思うに、ほとんど本すら読んでいない。最低限一般的な活字になった小説を読めば、格差が歴然のはずで、自分の書いた物の拙さの原因が何か、考えずにいられないと思うからだ。
 中学生の子どもに小説もどきを見せられて困惑したことはあるが、彼だって誰にでもは見せない。俺が温かく感想を言ってくれると思うから見せたのだろう。彼は読書家だったので、プロとの差は十分理解していたはずだ。
 好きな小説や目指す文章もないのに、ネットで小説もどきを公開するというのは、活字だとちょっと見拙さが目立たないことによって自分を誤魔化しやすいからだが、要は公開オナニーに過ぎない。しかも「ヘタクソ」つまりショーになってないわけだ。

 問題意識を持てば、すでにノウハウは手にしているはずなのだ。もちろん「語彙力」に百点満点はなく、文法力にも完璧はない。これは経験(読む、書く、映画でも何でも言葉に触れる)によって徐々に向上していくしかないものだが、文章の作法や原則など最低ラインのことは学校でも習ってるはずで、忘れたのなら何かテキストでも一冊読めばいいが、これだって三日あれば終わる話だ。

 「そんな無茶な」と思うかも知れないが、俺が認識する「最低限」のラインはそこらへんである。それで十分だ。あとは書きたい物をぶつけながら磨けばいい。それができていないから幻滅するのである。

 その先、先ほど述べた語彙力、ミスの根絶、構成力など高めていくには、「書き手として文章を読む」ことが最大にして唯一の道であると思う。
 例えば同じ形容詞がやたら繰り返されるのはかっこいい文章ではないが、これを回避するためにはふさわしい形容詞のバリエーションをたくさん知っていなくてはならない。
 その意識で他人の作品を読むと、「おお、こんな表現もあったのか!」と吸収でききる。読み手としてだけ楽しむときとは違う。少しステージが上がってくると、高校の頃に単に面白いとだけ思って読んだ小説を再読し、作者のあまりの巧緻に感動を新たにするというようなこともある。
 書きながら自分の至らなさを認識し、時には落ち込んで、また人の作品に触れれば、自分の文章力の向上に繋がるだけでなく、その作品の味わいも深まるのだ。その連鎖が人をより高みに導いてくれることは言うまでもない。
 これはミュージシャンや絵描きにも言えるはずである。たぶんプロは、一般人以上にその世界の作品に深く魅了されている。

 だからこそ、好きな作品や作家の一つもなく、小説を読む気もない人間の携帯小説ブログが痛々しく感じられるわけだ。まあ人の勝手なんだけどねえ。

 で、次回(いつかしらんが)に続くヒキだが、ここで述べた文章力ってのは、実は小説力(まあ「よい」「魅力的」な小説を書く力という意味)とは、無縁ではないけど、実は次元が違う話なんだよね。
 最低ラインを超えてれば、ここで述べた「文章力」が低くても、「小説力」が高い人はざらにいる。向上のコツは、文章力とかぶってると認識してるけどね。
 長くなるのでこの先はまた、別に項を起こすことにする。


おいしいもの! 北の味覚三昧

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携帯小説 流行ってるってさ
 新聞やワイドショーでは本質を確実に外した分析をするので、彼らの要因分析を参考にはしないが、流行ってはいるらしい。

 「普段の話し言葉と同じ」「行間だらけ、下部が隙間だらけ、ほとんどセリフ」

 これらの特徴は、ある種のラノベ、というか典型的なラノベと同じではないのだろうか。

 俺は好きな推理小説や、純文学系で、未読のものが多すぎるので、特にラノベとカテゴリされるものに触手は伸びない。寿命があと三十年あっても、伸ばせないだろう。
 軽いものをバカにする気はない。漫画は大好きだ。
 ともあれ、実際のラノベを知らないので、典型的ラノベの把握はずれてるかもしれないことは、お断りしておく。

 声がかかって登録した携帯ノベルサイトだが、当初「ライトノベルガーデン」という仮のサイト名がついていた。さしたるテーマもなくエロや男同士の好みのカップリングの恋愛が楽しめればいいという「ボーイズラブ」ノベルも、大きくはラノベなのだろう。
 だが俺の文章は、装飾過多のつもりはないが、易しくもないし、セリフばかりでもない。自分では「オーソドックス」と「簡潔」「耽美的でクール」な表現を目指している。特に狙いがない限り変なことをしないトラディションを大切にしている。
 そのサイトで一番売れている小説の、立ち読み版を読んだが、いきなりあっさりと一目惚れしてエロに入るご都合主義はともかく、文章はこなれていて、不快感も違和感もない。むしろ練達であると感じた。

 実際の携帯小説の世界は、すでに多様性の海の様相を呈している。横溝正史のミステリも再評価されて携帯書籍化されていた。

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絵と文章
 イラストについて、技術なんて一つのファクターに過ぎない、と多くのうまい人自身が言うけど、そうは言ってもとにかく手が器用に動いてくれれば、ずいぶん今よりいいものが描けるのに、とかは思う。きれいに線が引けて、三次元を二次元に正確に変換できて、損することはない。

 一方文章のうまい下手ってのも、確かにある。しかしこれこそ(とくにエロ小説あたりでは)重要でない、と思うのは、文章は書き慣れていて絵は初心者である者の不明なのだろうか。

 誤字脱字の連打や、文章のねじれなど文意を誤読されてしまうような文法ミスは、絵で言えばパースの狂いや線の震えと言った次元ではなく、スミをぼとっとこぼして修正していないようなものだ。それに自身が気づかない(細部の見過ごしではなくその場所を読んでもおかしさがわからない)となれば、これはもうどうしようもない。
 さすがにこのレベルは、誰でも作れる小説系WEBやBLOGにおいてもあまり見かけない。しかし存在する。これが、イラスト系サイトと大きく異なる。

 小説は、絵よりはたぶん「左脳的」で、知識で様々なことがカバーできる。そしてその知識の欠如が、けっこう痛い。

 遠近法や、混色の原則とか、絵にも知識的領域はある。しかし絵の場合、それらは「量的」には大したことがなく、それに知識のみでは役に立たない。ノウハウという便利な言葉があるけれど、経験を積みながら、知識を実際に使っていかないと、いくら話を聞いたり本を読んだりしても意味がないだろう。

 しかし小説においては、あるジャンルに大変深い知識があるというだけで、最低限の文章力があれば、すでにプロとして成功できる可能性が持てる。警察について、歴史について、心理学について……。得意のジャンルへの深い造詣が、成功の九割を占めてるんではないかと思われる作家、作品に心当たりはないだろうか。

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文章巷談 リアリズム
 俺の小説を、時々ほめてくださる人のよく言ってくださる言葉が「リアル」ということ。
 確かに、リアルということは意識している。けれど一般には、このリアルという言葉の認識も、かなり温度差があるようである。

 SFやファンタジーより現代恋愛ドラマがリアルか、といったら違う。小説におけるリアリティとはそういうものではない。だから俺の小説でリトルホーネット<夜想<土曜の順にリアルっていうことにはならない。
 リアルをそのように規定すれば、小説はリアルなほどに「夢のない」つまらないものになってしまう。

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小説の面白さって何よ?
 某サイトの日記に「あなたはなぜ小説を読みますか?」みたいな問いかけがあって、一瞬答えようかと思ったんだけど、フォームなどがなかったのと、質問の趣旨を取り違えてそうなので、お答えするのを控えさせていただいた。

 「あなたはなぜ小説を読みますか?」文字通りの問いと解釈するならそれは読むのが楽しいからに尽きるのだが、それでは答えになっていないだろう。そこで、この記事では「なぜあえて小説か?」というあたりに注目して考えを述べてみたい。

 テレビや映画はもちろん、マンガに比べても、小説というのは読む(楽しむ)のがしんどいように思われがちだし、一面これは真実だ。

 と、なぜここに比較対象としてテレビ、映画、マンガを出したか。それは、これらと小説に「お話を楽しむ」という共通要素があるからだ。
 本や文章のジャンルは無数にあるが、小説というのは何かを説明したものではなく、お話を楽しむものだ。題材がノンフィクションであっても、作者の意図が入っていて、ただの記録であるものは決して小説と呼ばない。お話として楽しめるように書かれたものだけを小説というのである。

 お話の楽しみ方は、昔口承に始まって、長らく文章、すなわち小説という形式しか存在しなかった。マンガもテレビも映画もこの100年の話である。意外にも映画の発展の方がはるかに早く、マンガがお話を伝える手段となって急速に発展しだしてからおそらく50年に満たない。

 マンガには絵がある。映画やテレビには実際の人物が、実際の事物が映し出され時系列にお話は流れていく。
 これらは優れた文化であり、「お話」を楽しむ手段の画期的な拡張だ。そして、疑いもなく小説を読むより「楽」だと言える。

 だが、マンガやこれら映像媒体が小説より優れた、もしくは「楽しい」、お話の楽しみ方だと言えるだろうか。
 無論個人の趣味で映画の方が本読むより楽しいわさ、という人はいるに決まっているが、これは絶対的な価値基準ではない。小説には映画やテレビなどの映像媒体、またマンガにない特徴がある。裏返せば映画やマンガが失ったものを持っているのだ。

 映像媒体は時系列で情報が過ぎ去る特性があって、過去を振り返れない。巻き戻せばいいのであるが、それは映像媒体を作った人間の意図と異なり、本のページをめくり直すのとはわけが違う。
 そして、マンガとも共通する特徴として、画像としての情報を持っているということがある。実は、これらは全て偽物なのだ。虚構という意味ではなく、偽物なのである。これは映像の場合に顕著だ。映画に映る風景や、役者は、「お話」が語る風景や人物ではあり得ない。どこかよその場所であり、他人なのだ。観る者はそれを楽しむ。監督の意図、役者の妙技で作られた虚構を味わうのだ。マンガではほぼ一人の人物の手で作られた二次元の虚構を楽しむ。本質は映像の楽しみ方に近い。ただ、時系列の縛りは存在しない。

 文章によって表現された虚構にも、無論作者の創意はびっしりとちりばめられているが、映像は存在しない。そして、ここに気づけ。小説だけが、主人公を背中から描けるのだ。映画にもマンガにも、主人公は、他の誰よりも明確な姿を持って描かれていて、誰よりも活き活きと描かれる。主人公の視線、主人公の思考、それらを、主人公の内部や背中から常時描ける媒体は小説以外にない。
 これ故に小説の持つ「感情移入度」は映画よりもマンガよりも深く独特の味わいを持っている。「深く」は主観かもしれないが……。

 そんなわけで、どれほどメディアが進歩しても、小説や活字文化は消えることはないと思うのですよ。

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文章巷談1 まずい文章
 近頃は表サイトで一般向け小説も書き始めたりして、文章を書くのは俺の生活の大切な一側面となっている。
 自分は文章がうまいなどと自惚れたことはないが、読むのも書くのも好きだから多少のこだわりは持っている。しかるに、総じてネット小説の文章はレベルが低い。金を取らないし好む人しか読まないし、第三者の推敲は入らないしで、独りよがりになるからだ。

 これから俺の思う文章の巧拙について述べるが、それはあくまでも主観で、エロ小説を書き散らしているだけの俺の感覚だから、個人的な好みと読み替えてもらってよい。

ネットでよく見かけるまずい文章とは、
① 誤字脱字、文法上のミスが放置されている……当たり前のようだが、この水準をクリアしていないものがネット上ではごろごろしている。俺のサイト上の文章も折りに触れ見直すとポツリポツリと変換ミスなどの誤字が見つかる。しかしそういう次元でなく、固有名詞を間違って何度も書いていたり、勝手に変換してくれるはずなのに用字が間違っていたり。他によくあるのが、文章のねじれ。途中ではじめ主語だったものと違うものの行動の描写に変わっていたりだ。
 これははっきり言って恥である。無料サービスで醜い裸をネットで衆目に晒しているようなものだ。
② 客観性に欠ける……登場人物の風貌性格行動などが、作者にだけわかっていて読者に全く伝わらないもの。描写していないのだから伝わるはずがない。同人コミックのアニパロのように、TVの子役やアニメの男の子を描いたショタ小説も見かけるが、いくらその元ネタを知っている人が対象だといっても、書き手なりのその少年への、思い入れや魅力の発見がなくては小説とは言えまい。「○○が●●のペニスをくわえた」と、その組み合わせに萌えるから単にそれだけ書いたって、それはその組み合わせに萌える誰もが頭で想像できることであって、あらためて書いてあるものを読む意味はない。いかにそこに至り、どのような感情が流れ、その光景がいかなる魅力を放つか描写してこそ小説ではないか。

 以上は露骨にひどいものについて書いており、かつ特定の誰かの文章なりサイトも俺の頭にはある。嫌われるのを承知で書くのは、せっかく一面で魅力的な価値観や世界を持っており、特殊な嗜好を満足させてくれそうなのに、あまりにひどくてつっかかって読む気がしなくなるのが惜しい書き手の人が何人かいるからだ。

三つ目は、これはやはり巧拙よりは好みなのかもだが……
③ 修辞法がやたらとくどい……「体言止め」「倒置」など、ストレートな文章のリズムを崩して表現の効果を高める修辞法がいくつかある。読んでいて文章のリズムがぱっと変われば読者ははっとするわけで、特に強調したい時の他、平板な流れが続いた時にメリハリをつけるのに使うのが普通だ。古文での係り結びなどもその一つ(←これ体言止め)。
 連ねた文の半分以上が体言止めとか、読んでいて恥ずかしくなる。衒いや気取りが露骨に匂うからだ。また本人は文章がうまいと思っているかも知れないとも感じる。そればかりでなく文章を読み慣れない人もうまい文章と思っているきらいも……。

 文章から話を広げれば、中森明菜(用例が古いなw)は歌がうまいと思っている人がいたり、新聞には必ず本当のことが書いてあると思っている人がいたりする。確かに明菜は最優秀歌謡賞をもらっているし、全国紙の記者はエリートばかりだ。だからって「最優秀歌謡賞だよ!?」とか「だって新聞にそう書いてあったもん」とか真顔で言われるとこっちはひっくりかえりそうになるわけだが、案外、こういう人は少なくない。文章の巧拙の判断も……。

 となると、やっぱり俺の書いてるこれって単なる個人的な好みでしかないわけか。

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