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マンションの一階の、つぶれた英会話塾の跡の空きテナントの前に、煙草の自動販売機がある。しかしあろうことか大半が売り切れランプだった。自販機に棚卸しなんてあるのか? 塾に続いて倒産か? 俺は舌打ちして、2ブロックだけ歩いたところにあるコンビニの前の自販機で、キャメルを二箱買った。パッケージの、この異常なほどの注意書きは何だろう? この箱の中身の半分以上が税金だなんてどういうことなのか? と、いちいち考えてしまうのだが、今となるとやめるのも何だか癪なのだ。平均的な成人は、一切ニコチンを断ち、四日間程度辛抱すれば禁断症状から離脱できるので、何ヶ月かでも売るのをやめればみんな吸わなくなるというのに、この注意書きは全く偽善だ。
ドアの電子ロックを解除する。普通のシリンダ鍵がついているのだが、合い鍵を一本、もしかしたら遊びに来る悪ガキの一人がくすねたかもしれないとおそれだしてから、自前で電子ロックをつけた。子どもは純真だというが、一面それは真実だが、実際は大人と同じだけ様々なタイプがいる。
小さな子が極度の悪さをしないのは、圧倒的に力で勝る大人に支配されているという要素が大きい。無論本当に幼い子の宇宙は母親しかなく(もっと前はその胎内である)、その後家族に、数人の友達に、と広がっていく。自分の宇宙が広がるとともに、過去の小さな宇宙を疑い、時には憎み破壊しようとするのだ。あるいはまた、今これから踏み込もうとする新しい宇宙に拒まれたと感じるとき、それを敵視し、攻撃する。
……まあいずれにせよ、手クセの悪いガキもいる。それもまたかわいい面もあるわけで、いやな思いをしないために、嘘や裏切りをあらかじめ防御するのだ。中学生くらいになれば、隙だらけの甘い大人に心を許さなくなる(ありていに言えば「なめる」)子も多い。
ドアを開けて中に入る。シャワーの水音は止まって、洗濯機のごおんごおんというモーター音が静かに聞こえ続けていた。脱衣場のドアも開いていた。中に彼はいない。
そして、リビングの引き戸を開けて、のけぞった。二、三歩、あとずさったほどだ。
「……何をしとるんやお前?」
「ゲーム」
ぶっきらぼうにこたえた伸介は全裸で、先日新調したばかりの32インチ液晶テレビの前の、大きな丸いクッションに、丸出しの尻を沈めて格闘ゲームをしていた。
「ゲームはわかっとるわ。そのカッコは何や」
むずむずと股間が反応した。何か先制攻撃を食らってしまった気がして、復讐せねばなるまい、と、理不尽な発想が浮かんだ。
「せやかてまだ洗濯機回ってるやん。パンツまで放り込んでからに」
もっともだ。
俺は黙ってクローゼットを開け、自分の黒地に白いプリントのTシャツと、トランクスを投げた。伸介は振り向きもしない。俺は横合いからゲームにポーズをかけた。
伸介はほのかに赤い頬をぷっとふくらませて、シャツを取る。髪はまだかなり水分を含んでいて、豊かに白く、天井のまばゆい蛍光灯の光を返し、いくらかは額に張りついている。バンザイをしてシャツを腕に通す伸介を、少し手伝う。甘い匂い、眩暈のするような素肌。伸介は、トランクスを穿かず、俺の大きなシャツを尻の下にくぐらせて、前もそのシャツで隠した。何となく、彼がそうするのを、俺はあらかじめ期待して、誘導していたような気がしていた。
バスルームに戻って、無造作に洗濯機にかけてあった伸介の使った、湿り気をおびたオレンジのバスタオルを取り、リビングに戻り彼の後ろに座って、タオルを彼の頭にふわりとかけて、指を立て強めに拭った。
「もうゲームしてええ?」
間近に俺を見上げる伸介が、また笑って歯をのぞかせた。俺はあえてやや無愛想気味に、うなずいてみせる。
「ほなここ」
伸介はクッションの座り位置をさっと左にずらして、ぽんぽんと空いた位置を叩くのだ。一緒にやろうということだ。遠慮はいらない。俺は密着して、彼の横に腰を落とした。
あとの展開を仕組むために、いろいろ聞き出そうという思惑はあったが、もう少しあとにしようか。運命の車輪はもう回転を始めていると、はっきりと感じていた。慌てなくてもきっとなるようになるのだ。逆に言えばもう、俺も伸介もその輪の回転から逃れられはしないのだ。
ドアの電子ロックを解除する。普通のシリンダ鍵がついているのだが、合い鍵を一本、もしかしたら遊びに来る悪ガキの一人がくすねたかもしれないとおそれだしてから、自前で電子ロックをつけた。子どもは純真だというが、一面それは真実だが、実際は大人と同じだけ様々なタイプがいる。
小さな子が極度の悪さをしないのは、圧倒的に力で勝る大人に支配されているという要素が大きい。無論本当に幼い子の宇宙は母親しかなく(もっと前はその胎内である)、その後家族に、数人の友達に、と広がっていく。自分の宇宙が広がるとともに、過去の小さな宇宙を疑い、時には憎み破壊しようとするのだ。あるいはまた、今これから踏み込もうとする新しい宇宙に拒まれたと感じるとき、それを敵視し、攻撃する。
……まあいずれにせよ、手クセの悪いガキもいる。それもまたかわいい面もあるわけで、いやな思いをしないために、嘘や裏切りをあらかじめ防御するのだ。中学生くらいになれば、隙だらけの甘い大人に心を許さなくなる(ありていに言えば「なめる」)子も多い。
ドアを開けて中に入る。シャワーの水音は止まって、洗濯機のごおんごおんというモーター音が静かに聞こえ続けていた。脱衣場のドアも開いていた。中に彼はいない。
そして、リビングの引き戸を開けて、のけぞった。二、三歩、あとずさったほどだ。
「……何をしとるんやお前?」
「ゲーム」
ぶっきらぼうにこたえた伸介は全裸で、先日新調したばかりの32インチ液晶テレビの前の、大きな丸いクッションに、丸出しの尻を沈めて格闘ゲームをしていた。
「ゲームはわかっとるわ。そのカッコは何や」
むずむずと股間が反応した。何か先制攻撃を食らってしまった気がして、復讐せねばなるまい、と、理不尽な発想が浮かんだ。
「せやかてまだ洗濯機回ってるやん。パンツまで放り込んでからに」
もっともだ。
俺は黙ってクローゼットを開け、自分の黒地に白いプリントのTシャツと、トランクスを投げた。伸介は振り向きもしない。俺は横合いからゲームにポーズをかけた。
伸介はほのかに赤い頬をぷっとふくらませて、シャツを取る。髪はまだかなり水分を含んでいて、豊かに白く、天井のまばゆい蛍光灯の光を返し、いくらかは額に張りついている。バンザイをしてシャツを腕に通す伸介を、少し手伝う。甘い匂い、眩暈のするような素肌。伸介は、トランクスを穿かず、俺の大きなシャツを尻の下にくぐらせて、前もそのシャツで隠した。何となく、彼がそうするのを、俺はあらかじめ期待して、誘導していたような気がしていた。
バスルームに戻って、無造作に洗濯機にかけてあった伸介の使った、湿り気をおびたオレンジのバスタオルを取り、リビングに戻り彼の後ろに座って、タオルを彼の頭にふわりとかけて、指を立て強めに拭った。
「もうゲームしてええ?」
間近に俺を見上げる伸介が、また笑って歯をのぞかせた。俺はあえてやや無愛想気味に、うなずいてみせる。
「ほなここ」
伸介はクッションの座り位置をさっと左にずらして、ぽんぽんと空いた位置を叩くのだ。一緒にやろうということだ。遠慮はいらない。俺は密着して、彼の横に腰を落とした。
あとの展開を仕組むために、いろいろ聞き出そうという思惑はあったが、もう少しあとにしようか。運命の車輪はもう回転を始めていると、はっきりと感じていた。慌てなくてもきっとなるようになるのだ。逆に言えばもう、俺も伸介もその輪の回転から逃れられはしないのだ。
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昌巳はそう長くトイレでがんばっていたわけではないが、金は待つ間、昌巳の寝ていた、へこんだ敷き布団の四隅を直したり、昌巳の半ズボンを手に取ってみたり、落ち着かなかった。半ズボンは、寝かせるときゴワつくので穿かせないでいたのだ。その半ズボンのヒップポケットから、何か小さなものが畳の上に落ちた。
「あっと」
それは小さなメモ帳で、上部をスプリング状の針金で綴じたものだ。ベージュの表紙は、下の角が両方とも雨水が染みて変色し、中の紙と一緒に上に反り上がっていた。少し気が咎めたが、金はページをめくる。
意外なほど几帳面な小さな文字で、人の名前と、電話番号らしい数字、何の目印もない四桁や五桁の数字が整理されず並んでいた。名前は、「井上」とか簡単な部分が漢字で、大部分はカタカナだった。記号のようだ。人名は記号。電話番号は大半が携帯かIPフォーンだ。目印のない数字は、桁数から考えて金額だろう。これは業務手帳のようなものだ。その業務は、少なくともこの数日はあがったりだったはずだ。脱げば病気が明らかである。目に見える症状が出る前でも、顔色や空気から、客が好んで買うとは思えない。メモ帳の入っていたポケットにはちびた鉛筆が一本。前のポケットには小銭。それ以外何もなかった。
「すんだ。……先生!? 先生!」
金が昌巳の声に気づき、我に返ったのは、三度目に呼ばれてからだった。
「おお、すまんすまん」
金は必要以上に大きな声で返事し、メモ帳をヒップポケットに戻し、その半ズボンを布団の足下に置いてから、トイレのドアノブを回した。
「もう」
「ちゃんとケツ拭いたか?」
昌巳が何か言う前に、金は彼の体を抱え上げ、布団に寝かせた。
掛け布団を昌巳のからだにそっとかける金を見上げる彼の目は、いつになく穏やかだった。
「なあ先生」
「ん?」
「腹減った」
金は笑った。
「出すもの出したら、空きがでたな。いい傾向だ。ちょっと待ってな」
「あっと」
それは小さなメモ帳で、上部をスプリング状の針金で綴じたものだ。ベージュの表紙は、下の角が両方とも雨水が染みて変色し、中の紙と一緒に上に反り上がっていた。少し気が咎めたが、金はページをめくる。
意外なほど几帳面な小さな文字で、人の名前と、電話番号らしい数字、何の目印もない四桁や五桁の数字が整理されず並んでいた。名前は、「井上」とか簡単な部分が漢字で、大部分はカタカナだった。記号のようだ。人名は記号。電話番号は大半が携帯かIPフォーンだ。目印のない数字は、桁数から考えて金額だろう。これは業務手帳のようなものだ。その業務は、少なくともこの数日はあがったりだったはずだ。脱げば病気が明らかである。目に見える症状が出る前でも、顔色や空気から、客が好んで買うとは思えない。メモ帳の入っていたポケットにはちびた鉛筆が一本。前のポケットには小銭。それ以外何もなかった。
「すんだ。……先生!? 先生!」
金が昌巳の声に気づき、我に返ったのは、三度目に呼ばれてからだった。
「おお、すまんすまん」
金は必要以上に大きな声で返事し、メモ帳をヒップポケットに戻し、その半ズボンを布団の足下に置いてから、トイレのドアノブを回した。
「もう」
「ちゃんとケツ拭いたか?」
昌巳が何か言う前に、金は彼の体を抱え上げ、布団に寝かせた。
掛け布団を昌巳のからだにそっとかける金を見上げる彼の目は、いつになく穏やかだった。
「なあ先生」
「ん?」
「腹減った」
金は笑った。
「出すもの出したら、空きがでたな。いい傾向だ。ちょっと待ってな」
シャワーノズルから湯の流れ落ちる音を背に、バスルームを出た。少しずつ今シャワーを浴びている少年のことを思い出していた。
彼がここに来たのは、三度目のはずだ。常連と言っていい三人が、新しく連れてきた子だ。一番最近に来たのは、二週間ほど前か。そういう子は、入り浸るか、いつの間にか来なくなるかの二手しかないわけだが、俺には彼がどちらになるか、ちょっと予想はついていなかった。そもそも、あまり印象に残っていない。俺は彼とあまり話していない。名前も覚えていない。聞いたかどうかもだ。
あの三人は五年と六年で、まあ仲がよければ歳が開いてもここらではタメ口が当たり前だが、一人歳下という印象はなかった。育ち遅れの五年生で間違いないだろう。先ほどの態度でも知れるが、銭湯などでは前を隠そうともしないタイプだ。よその地域ではいざ知らず、銭湯で極度に前を隠すのはむしろ恥ずかしい行為というのが、ここらの普通の子どもの感覚だ。五年か六年、つまり発毛前くらいから隠す子が増え、中三から高校に上がる頃には、また誰も隠さなくなる。ずっと隠さない子もいる。思春期になると急に変わる子もいるが、あの子は多分、ずっと隠さないタイプだ。現状ほとんど性の目覚めはなく、おそらく周囲の子らの背伸び気味の猥談にもついて行けていない感じだった。
俺は玄関口に投げ出してある色のはげたランドセルのそばにしゃがみ、それに括りつけてある、いわゆる「給食袋」をつまみあげた。黄色いそれは雨水をたっぷり吸って重い。マジックで名前が書いてある。今度は読み取れる。彼自身の手によると思われる、拙くはないが子どもの字だった。「葎屋伸介」とある。葎屋は「むぐらや」と読む。かなり珍しい名字で、しかも彼はこの近くの学校の校区内に住んでいるに決まっているから、彼がどこの家の子かピンポイントで分かってしまった。その事実は彼の第一印象を裏切るものだった。営利誘拐じゃあるまいし、子どもの家庭環境などとりあえず意味はない。ただ、十歳やそこらの子どもの人格形成には家庭環境の影響はかなり大きいので、気に入った子を落としたい場合には、どこを突くか、大いに作戦の参考になるわけではあるが、それは長期戦の場合の話だ。
意外と、長いシャワーだ。遠慮というものがない。また口元に、笑みがわき上がる。煙草を買ってこよう。
彼がここに来たのは、三度目のはずだ。常連と言っていい三人が、新しく連れてきた子だ。一番最近に来たのは、二週間ほど前か。そういう子は、入り浸るか、いつの間にか来なくなるかの二手しかないわけだが、俺には彼がどちらになるか、ちょっと予想はついていなかった。そもそも、あまり印象に残っていない。俺は彼とあまり話していない。名前も覚えていない。聞いたかどうかもだ。
あの三人は五年と六年で、まあ仲がよければ歳が開いてもここらではタメ口が当たり前だが、一人歳下という印象はなかった。育ち遅れの五年生で間違いないだろう。先ほどの態度でも知れるが、銭湯などでは前を隠そうともしないタイプだ。よその地域ではいざ知らず、銭湯で極度に前を隠すのはむしろ恥ずかしい行為というのが、ここらの普通の子どもの感覚だ。五年か六年、つまり発毛前くらいから隠す子が増え、中三から高校に上がる頃には、また誰も隠さなくなる。ずっと隠さない子もいる。思春期になると急に変わる子もいるが、あの子は多分、ずっと隠さないタイプだ。現状ほとんど性の目覚めはなく、おそらく周囲の子らの背伸び気味の猥談にもついて行けていない感じだった。
俺は玄関口に投げ出してある色のはげたランドセルのそばにしゃがみ、それに括りつけてある、いわゆる「給食袋」をつまみあげた。黄色いそれは雨水をたっぷり吸って重い。マジックで名前が書いてある。今度は読み取れる。彼自身の手によると思われる、拙くはないが子どもの字だった。「葎屋伸介」とある。葎屋は「むぐらや」と読む。かなり珍しい名字で、しかも彼はこの近くの学校の校区内に住んでいるに決まっているから、彼がどこの家の子かピンポイントで分かってしまった。その事実は彼の第一印象を裏切るものだった。営利誘拐じゃあるまいし、子どもの家庭環境などとりあえず意味はない。ただ、十歳やそこらの子どもの人格形成には家庭環境の影響はかなり大きいので、気に入った子を落としたい場合には、どこを突くか、大いに作戦の参考になるわけではあるが、それは長期戦の場合の話だ。
意外と、長いシャワーだ。遠慮というものがない。また口元に、笑みがわき上がる。煙草を買ってこよう。
昌巳は布団に横たわっていて、金の顔を見ると幾分血色がよくなったその顔に安堵の表情が広がった。差し迫って具合が悪くなったようには見えなかった。
「何だ? どこか痛いのか」
「先生、どこ行ってたん?」
先生、というのはこの街での金の仇名のようなもので、敬称ではない。ここいらに定住している人間で、先生という呼称に値する生業をなす者は、金以外には自称芸術家くらいしかいなかった。したがって、こう呼んだからとてそれだけで昌巳が急に殊勝になったということはできない。
「下の病院だ」
「誰も患者なんかおらんのに?」
「ああ、お察しの通りの閑古鳥だから片付けて店じまいだ。で、どうした?」
奇妙な短い間があった。
「……便所……」
「は?」
「うんこ、したいねん」
金の顔に笑みが広がった。
「何だよ……トイレのドアはそこだ。まあ通じがあるのは健康の……」
影になった昌巳の表情が漂わせるものを感じ、金の言葉と笑みは、うつ向いた昌巳の表情の闇に飲まれるように消えていった。
「……立たれへんねん。さっきからなんぼがんばっても足に力が入らへん……先生、俺どうなるんやろ……」
悲痛な声だった。金は勢いよく腰を上げた。今昌巳と目を合わせる勇気はなかった。そのまま昌巳の頭の方にまわってしゃがみ、昌巳の脇の下に手を差し入れて彼のからだを抱え上げた。
「どうもならんさ。まずはクソしてから考えろ」
軽々と昌巳の小さなからだを宙に浮かせたまま、金は大股に歩いて、トイレのドアノブに手をかけた。昌巳を洋式の便座にゆっくりと座らせると、彼のパンツに指をかけた。
「それは、自分でできる……」
昌巳の小さな手が、金のごつい手に重なった。
「そうか、じゃ終わったら呼べ。閉めるぞ」
「うん」
金は軽くドアを押して閉めると、小さくため息を洩らした。
敵意のない人間しかいない、シェルターのような狭い空間に守られたことを、昌巳の無意識が確認したとき、過度の緊張に隠されていた彼の本来の疲労と衰弱が表面にあらわれたのだ。その現実がどうであれ、あの幼さで、安息できる巣を持たない彼が、発熱やだるさくらいならいざ知らず、歩けないと実感した時の不安と絶望と悲しみは、想像を絶し、安易に同情することすらおこがましいように金には感じられたのだ。金は先ほど昌巳の目を見ることを避けた自分を、無力だと感じていた。
「何だ? どこか痛いのか」
「先生、どこ行ってたん?」
先生、というのはこの街での金の仇名のようなもので、敬称ではない。ここいらに定住している人間で、先生という呼称に値する生業をなす者は、金以外には自称芸術家くらいしかいなかった。したがって、こう呼んだからとてそれだけで昌巳が急に殊勝になったということはできない。
「下の病院だ」
「誰も患者なんかおらんのに?」
「ああ、お察しの通りの閑古鳥だから片付けて店じまいだ。で、どうした?」
奇妙な短い間があった。
「……便所……」
「は?」
「うんこ、したいねん」
金の顔に笑みが広がった。
「何だよ……トイレのドアはそこだ。まあ通じがあるのは健康の……」
影になった昌巳の表情が漂わせるものを感じ、金の言葉と笑みは、うつ向いた昌巳の表情の闇に飲まれるように消えていった。
「……立たれへんねん。さっきからなんぼがんばっても足に力が入らへん……先生、俺どうなるんやろ……」
悲痛な声だった。金は勢いよく腰を上げた。今昌巳と目を合わせる勇気はなかった。そのまま昌巳の頭の方にまわってしゃがみ、昌巳の脇の下に手を差し入れて彼のからだを抱え上げた。
「どうもならんさ。まずはクソしてから考えろ」
軽々と昌巳の小さなからだを宙に浮かせたまま、金は大股に歩いて、トイレのドアノブに手をかけた。昌巳を洋式の便座にゆっくりと座らせると、彼のパンツに指をかけた。
「それは、自分でできる……」
昌巳の小さな手が、金のごつい手に重なった。
「そうか、じゃ終わったら呼べ。閉めるぞ」
「うん」
金は軽くドアを押して閉めると、小さくため息を洩らした。
敵意のない人間しかいない、シェルターのような狭い空間に守られたことを、昌巳の無意識が確認したとき、過度の緊張に隠されていた彼の本来の疲労と衰弱が表面にあらわれたのだ。その現実がどうであれ、あの幼さで、安息できる巣を持たない彼が、発熱やだるさくらいならいざ知らず、歩けないと実感した時の不安と絶望と悲しみは、想像を絶し、安易に同情することすらおこがましいように金には感じられたのだ。金は先ほど昌巳の目を見ることを避けた自分を、無力だと感じていた。
昌巳が眠りに落ち、再び目覚めて朧な意識で頭を振った時、突然間近に大声を聞き、驚きにからだを硬直させた。
「起きたか! あ、すまんおどかしたか」
昌巳は目をしばたたき首を振った。
「ううん……ここどこ?」
「俺の寝ぐらだ」
金の家は彼の診療所の真上にある。つまり、古いエンピツビルの三階で、当然敷地面積は診療所と全く同じだ。
「下は診察ベッドがひとつきりでな。悪いが寝てる間に勝手に動かした。いたずらはしてないから安心しろ」
「……脳みそ腐ってんのちゃうかホンマ……」
運んでくれたことに対してなど、礼の言葉を口にしようかという思いがちょっとは脳裏をよぎった昌巳だったが、表情一つ変えないままの金の軽口に文字通り閉口して顔をしかめた。
昌巳は陽に焼けた畳の六畳間に敷いた布団に寝かされていた。
「腹減ってるか。おでんと……米の飯だけはたっぷりあるが」
昌巳は自分のものでないかのように、腹を触って、
「後にしてええ? もうちょっと寝てから……」
と答え、金の顔を窺う。
「好きにしなよ。点滴に栄養も入れたから、腹減った感じがしなくても不思議はない」
うん、と小さくうなずき、昌巳は目を閉じ、再び眠りに落ちていった。
「先生! 先生!」
「どうした!」
ドアの中から聞こえた昌巳の声に切迫したものを感じ、金は玄関のドアを乱暴に開けて部屋に飛び込んだ。
「起きたか! あ、すまんおどかしたか」
昌巳は目をしばたたき首を振った。
「ううん……ここどこ?」
「俺の寝ぐらだ」
金の家は彼の診療所の真上にある。つまり、古いエンピツビルの三階で、当然敷地面積は診療所と全く同じだ。
「下は診察ベッドがひとつきりでな。悪いが寝てる間に勝手に動かした。いたずらはしてないから安心しろ」
「……脳みそ腐ってんのちゃうかホンマ……」
運んでくれたことに対してなど、礼の言葉を口にしようかという思いがちょっとは脳裏をよぎった昌巳だったが、表情一つ変えないままの金の軽口に文字通り閉口して顔をしかめた。
昌巳は陽に焼けた畳の六畳間に敷いた布団に寝かされていた。
「腹減ってるか。おでんと……米の飯だけはたっぷりあるが」
昌巳は自分のものでないかのように、腹を触って、
「後にしてええ? もうちょっと寝てから……」
と答え、金の顔を窺う。
「好きにしなよ。点滴に栄養も入れたから、腹減った感じがしなくても不思議はない」
うん、と小さくうなずき、昌巳は目を閉じ、再び眠りに落ちていった。
「先生! 先生!」
「どうした!」
ドアの中から聞こえた昌巳の声に切迫したものを感じ、金は玄関のドアを乱暴に開けて部屋に飛び込んだ。
少年の両肩を後ろから軽く押して、ゆっくりとバスルームに導いた。小さな肩が少し震えているようだ。これだけ濡れれば、この季節でも、運動をやめたとたんに体が急に冷えてくるのも無理はない。ウィンドブレーカーの下はプリントのシャツ一枚で、汗と湿気と入りこんだ雨で、何のための合羽やら、ずっしり水分を含んで体に貼りついて、俺にとってはこれはもうエロス以外の何ものでもないのだった。太ってはいないのに腹部のラインはわずかに膨らみを帯び、骨格は思いがけぬほど華奢で、俺の当初の彼の年齢についての見立ては、誤りかも知れないと思った。
脱衣篭を跨いでバスタオルを取ろうとするので、
「そんな濡れた服のまま頭だけ拭いてもしゃあないわ。服洗濯機に突っ込んでシャワー浴びい」
と水を向けた。
「別に洗わんでも……」
「さっと水ですすいで脱水するだけや。知らんか? 雨水てめちゃめちゃ汚いねんど」
ふうん、と漏らすと、少年はためらいもなくシャツに手をかけ、脱いだ服をポイポイと洗濯機に放り込んで全裸になった。その上また、すっ裸で俺を見上げて真っ白の歯並びの悪い歯をむき出してにっと笑ったのだ。俺は、認め難いがたじろいだ。ベタベタと体に貼りついていた着衣を脱ぎ捨てて気持がいい、という意思表示だったようだが……。
暗めの照明の下でも、全身やはり病的なまでの白さだ。血流がそれを、かすかに朱にそめているのだ。剥きたての白桃の果実のようだ……。そしてやはり、まだ完全な幼児体型だった。思春期や二次性徴や力強い骨格は、まだ一切の主張を始めていなかった。湿ったパンツに収まっていた小さなペニスはしおれていたが、皮は手で剥けそうだった。
バスルームに少年を押し込み、洗濯機の中のブリーフを何となくつまみ上げて、マジックで名前が書いてあるのが妙にかわいくて笑ってしまった。もっとも、文字は擦れて、いくつかしか判読できなかった。
水音がしてすぐ、「つべた!」という叫びがガラスの向こうから聞こえ、俺は目尻が下がって笑みが浮かぶのを抑えきれなかった。
「アホやな。じきに熱なるわ。手で確かめながら温度調節すんにゃ。そうせんと今度はやけどするど」
俺の大声に対し、はーい、とエコーのかかったボーイ・ソプラノが返ってきた。
今日の俺は優し過ぎるかも知れない。誤解をおそれずに言うなら、この優しさは決して、芝居ではない。これから何が起こり、俺が如何に変貌しようとも、それもまた俺、今の俺も、偽らざる俺という人間だ。
脱衣篭を跨いでバスタオルを取ろうとするので、
「そんな濡れた服のまま頭だけ拭いてもしゃあないわ。服洗濯機に突っ込んでシャワー浴びい」
と水を向けた。
「別に洗わんでも……」
「さっと水ですすいで脱水するだけや。知らんか? 雨水てめちゃめちゃ汚いねんど」
ふうん、と漏らすと、少年はためらいもなくシャツに手をかけ、脱いだ服をポイポイと洗濯機に放り込んで全裸になった。その上また、すっ裸で俺を見上げて真っ白の歯並びの悪い歯をむき出してにっと笑ったのだ。俺は、認め難いがたじろいだ。ベタベタと体に貼りついていた着衣を脱ぎ捨てて気持がいい、という意思表示だったようだが……。
暗めの照明の下でも、全身やはり病的なまでの白さだ。血流がそれを、かすかに朱にそめているのだ。剥きたての白桃の果実のようだ……。そしてやはり、まだ完全な幼児体型だった。思春期や二次性徴や力強い骨格は、まだ一切の主張を始めていなかった。湿ったパンツに収まっていた小さなペニスはしおれていたが、皮は手で剥けそうだった。
バスルームに少年を押し込み、洗濯機の中のブリーフを何となくつまみ上げて、マジックで名前が書いてあるのが妙にかわいくて笑ってしまった。もっとも、文字は擦れて、いくつかしか判読できなかった。
水音がしてすぐ、「つべた!」という叫びがガラスの向こうから聞こえ、俺は目尻が下がって笑みが浮かぶのを抑えきれなかった。
「アホやな。じきに熱なるわ。手で確かめながら温度調節すんにゃ。そうせんと今度はやけどするど」
俺の大声に対し、はーい、とエコーのかかったボーイ・ソプラノが返ってきた。
今日の俺は優し過ぎるかも知れない。誤解をおそれずに言うなら、この優しさは決して、芝居ではない。これから何が起こり、俺が如何に変貌しようとも、それもまた俺、今の俺も、偽らざる俺という人間だ。
「痛い言うとるやないかこのヤブ医者!」
昌巳の雨に湿ったシャツの下はむき出しの裸で、苦痛にもがきながら悪態をつき続けていた。
「膿が皮の内側に思いきり溜まってんだよ。これを切り落とすはめになってもいいのか?」
金は消毒綿越しに、昌巳の、包皮をめくりあげた幼い性器をいじわるくぎゅっとつまんだ。
「痛い……。わかったから早よして……」
昌巳の声が大人しくなった。
(ふ……ちょっとびびったらしいな。この手のでたらめは医者の特権だ)
下半身の消毒を終えて、金は昌巳の細い足に半ズボンを通した。
「さて」
続いて金は、昌巳の手首に点滴の針を手際よく打ち込むと、輸液速度をちらりと確認し、診療台の横にパイプ椅子を寄せて腰掛け、昌巳の顔をのぞきこんでにっと笑いかけた。
「寝てていいぜ。腹減ってるかも知れんが、点滴終わってからでいいだろ」
昌巳はそれには返事しなかった。
「……どうするつもりや?」
昌巳は天井を見つめ、金の顔は見ない。
「あ? ……うーん。血液検査の結果待ちだが、まず間違いなく梅だな。抗生物質の連続投与。大概一ヶ月もかからずきれいに治るよ」
「そういうことやのうて」
今度は、昌巳は射るような眼差しで金の顔を見た。苛立ったような口調だった。
「ん?」
「俺金持ってない。治療代なんか一銭も払えへんで」
昌巳の声には悪態をついている時のような元気はなかった。
「何だそんなことか」
金のとぼけた口調に、昌巳はちょっと首を持ち上げて次の言葉を待った。
「きれいさっぱり治ったら、このからだで払ってもらうさ」
一瞬の沈黙があり、昌巳の頬にさっとかすかに朱が差し、続いて眉間にしわが寄った。
「……お前……絶対ビョーキ感染(うつ)したるからな」
金は思わず吹き出し応じた。
「カカカ、その時は甘んじて感染されてやろう。俺の腕が悪かった報いだからな」
昌巳はもう憎まれ口を返すことはせず、そのかわり顔を金の反対側、診察室のドア側に向けて、金には表情を見せなかった。
昌巳の雨に湿ったシャツの下はむき出しの裸で、苦痛にもがきながら悪態をつき続けていた。
「膿が皮の内側に思いきり溜まってんだよ。これを切り落とすはめになってもいいのか?」
金は消毒綿越しに、昌巳の、包皮をめくりあげた幼い性器をいじわるくぎゅっとつまんだ。
「痛い……。わかったから早よして……」
昌巳の声が大人しくなった。
(ふ……ちょっとびびったらしいな。この手のでたらめは医者の特権だ)
下半身の消毒を終えて、金は昌巳の細い足に半ズボンを通した。
「さて」
続いて金は、昌巳の手首に点滴の針を手際よく打ち込むと、輸液速度をちらりと確認し、診療台の横にパイプ椅子を寄せて腰掛け、昌巳の顔をのぞきこんでにっと笑いかけた。
「寝てていいぜ。腹減ってるかも知れんが、点滴終わってからでいいだろ」
昌巳はそれには返事しなかった。
「……どうするつもりや?」
昌巳は天井を見つめ、金の顔は見ない。
「あ? ……うーん。血液検査の結果待ちだが、まず間違いなく梅だな。抗生物質の連続投与。大概一ヶ月もかからずきれいに治るよ」
「そういうことやのうて」
今度は、昌巳は射るような眼差しで金の顔を見た。苛立ったような口調だった。
「ん?」
「俺金持ってない。治療代なんか一銭も払えへんで」
昌巳の声には悪態をついている時のような元気はなかった。
「何だそんなことか」
金のとぼけた口調に、昌巳はちょっと首を持ち上げて次の言葉を待った。
「きれいさっぱり治ったら、このからだで払ってもらうさ」
一瞬の沈黙があり、昌巳の頬にさっとかすかに朱が差し、続いて眉間にしわが寄った。
「……お前……絶対ビョーキ感染(うつ)したるからな」
金は思わず吹き出し応じた。
「カカカ、その時は甘んじて感染されてやろう。俺の腕が悪かった報いだからな」
昌巳はもう憎まれ口を返すことはせず、そのかわり顔を金の反対側、診察室のドア側に向けて、金には表情を見せなかった。
「まだラッキーかどうかわからんど。俺を便利屋みたいに思てるやつに用はないからな。ほなな」
俺は少年の反応を待たず、さっとドアを閉めた。
少しの間のあと、少年の声の中でも俺の大好きな、かすれて高い哀願の声がドア越しに聞こえてきた。
「……おっちゃん!おっちゃんごめん。……なあ開けて。なあて……」
次第に切なくなる少年の叫びをそれだけ聞くと、俺はドアをゆっくり開けた。間近な低い位置から、俺を見上げる少年の口元は見る間にほころんで、抜け残った乳歯のまじった白い歯並びがのぞいた。俺は正直なところ、ちょっとドキリとした。
「おっちゃんひどいわー」
そのまま、彼は濡れた頭を俺の腹に押しつけた。
「こらこらこら! 濡れる! わかったからとりあえず中入れ」
玄関に導き入れ、ドアを閉めた。
「まず合羽脱いでそこに……あ、荷物も持ってあがらんとそこ置いてくれ。家の中が水浸しなるからな」
彼は右手に、水滴のたれるかなりくたびれたランドセルをぶらさげていたのだ。つまり、学校から直行ということになる。家の人間は、彼がここに来ていることは知るまい。もしかすると、彼は今日、とてもアンラッキーなのかも知れない。
俺は少年の反応を待たず、さっとドアを閉めた。
少しの間のあと、少年の声の中でも俺の大好きな、かすれて高い哀願の声がドア越しに聞こえてきた。
「……おっちゃん!おっちゃんごめん。……なあ開けて。なあて……」
次第に切なくなる少年の叫びをそれだけ聞くと、俺はドアをゆっくり開けた。間近な低い位置から、俺を見上げる少年の口元は見る間にほころんで、抜け残った乳歯のまじった白い歯並びがのぞいた。俺は正直なところ、ちょっとドキリとした。
「おっちゃんひどいわー」
そのまま、彼は濡れた頭を俺の腹に押しつけた。
「こらこらこら! 濡れる! わかったからとりあえず中入れ」
玄関に導き入れ、ドアを閉めた。
「まず合羽脱いでそこに……あ、荷物も持ってあがらんとそこ置いてくれ。家の中が水浸しなるからな」
彼は右手に、水滴のたれるかなりくたびれたランドセルをぶらさげていたのだ。つまり、学校から直行ということになる。家の人間は、彼がここに来ていることは知るまい。もしかすると、彼は今日、とてもアンラッキーなのかも知れない。
「こんなになるまでほっときやがって。死んじまうぞお前」
白衣の大柄の男は金修平といって、韓国籍のれっきとした医者だ。三十過ぎだが、大学病院を追い出されたとかで、四、五年前からこの街で小さな診療所をやっていた。土地柄に加え、無保険者を平気で診る男なので、いきおいまともな患者はよりつかない。
「構わんといてほしかったわ。もうちょいで死ねたのに」
破れ診察台の上で、悪態をついているのは昌巳と呼ばれている少年だった。自称11歳だが9歳くらいにしか見えない。日頃は、愛嬌のある顔を裏切り、人好きのしないほど恐ろしく気の強い少年だったが、今はさすがに声に元気がなかった。
「死ぬんならこれいらねえな。切ってやろうか?」
「いたたたたっ! 何すんね。アホ! ボケ……」
金はもがき苦しむ昌巳の両足をがっちり押さえて逃がさない。子どもらしくベソをかきだしそうな昌巳の横顔を、にやついた顔で見下ろしていた。
金の診療所は古びた雑居ビルの二階にあり、裏路地側の階段から、直接上っていけるようになっている。
冷たい晩秋の小雨の降る夕刻、金はコンビニのおでんをありがたげに抱きしめ、裏路地に折れたのだった。
すでにしとど濡れて冷たそうな階段脇のドブ板の上に、昌巳は半袖半ズボンで眠るようにうずくまっていた。
ここらでは路上で眠る少年は珍しくない。
街を仕切る人間に大人しく使われてさえいれば、稼ぎが悪くてもメシとネグラは何とかするのが「彼ら」のやり方。しかしひどく稼ぎが悪いなり仕事ぶりや態度に兄貴分からみて問題があれば、拳骨のふるわれることも珍しくない。
一時的にヤサを追い出されたか、ここの暮らしに嫌気がさしたか、誰も詮索などしない。冷たい雨に降られていた昌巳の細い手足は、よく陽に焼けてはいたが血の気に乏しく、薄暗がりにも身体が小さく震えているのが窺えた。
金は深く考えず、昌巳の細っこい身体を空いた片手で軽々と抱き上げ、暗い階段を上ったのだった。
白衣の大柄の男は金修平といって、韓国籍のれっきとした医者だ。三十過ぎだが、大学病院を追い出されたとかで、四、五年前からこの街で小さな診療所をやっていた。土地柄に加え、無保険者を平気で診る男なので、いきおいまともな患者はよりつかない。
「構わんといてほしかったわ。もうちょいで死ねたのに」
破れ診察台の上で、悪態をついているのは昌巳と呼ばれている少年だった。自称11歳だが9歳くらいにしか見えない。日頃は、愛嬌のある顔を裏切り、人好きのしないほど恐ろしく気の強い少年だったが、今はさすがに声に元気がなかった。
「死ぬんならこれいらねえな。切ってやろうか?」
「いたたたたっ! 何すんね。アホ! ボケ……」
金はもがき苦しむ昌巳の両足をがっちり押さえて逃がさない。子どもらしくベソをかきだしそうな昌巳の横顔を、にやついた顔で見下ろしていた。
金の診療所は古びた雑居ビルの二階にあり、裏路地側の階段から、直接上っていけるようになっている。
冷たい晩秋の小雨の降る夕刻、金はコンビニのおでんをありがたげに抱きしめ、裏路地に折れたのだった。
すでにしとど濡れて冷たそうな階段脇のドブ板の上に、昌巳は半袖半ズボンで眠るようにうずくまっていた。
ここらでは路上で眠る少年は珍しくない。
街を仕切る人間に大人しく使われてさえいれば、稼ぎが悪くてもメシとネグラは何とかするのが「彼ら」のやり方。しかしひどく稼ぎが悪いなり仕事ぶりや態度に兄貴分からみて問題があれば、拳骨のふるわれることも珍しくない。
一時的にヤサを追い出されたか、ここの暮らしに嫌気がさしたか、誰も詮索などしない。冷たい雨に降られていた昌巳の細い手足は、よく陽に焼けてはいたが血の気に乏しく、薄暗がりにも身体が小さく震えているのが窺えた。
金は深く考えず、昌巳の細っこい身体を空いた片手で軽々と抱き上げ、暗い階段を上ったのだった。
【設定】
今も世界には、児童売春が組織的に行われているスポットが、各地に存在している。その中においてパーセンテージは低めながら、「少年専門」のスポットも、何ヶ所か実在する。
もし日本に、そんな少年売春街が存在したら……。わずかな過去か未来か、経済的に少々つまずいた日本。もしくは戦後から今のようには経済成長しそこねた日本。パラレルワールドの日本の、関西をベースにした架空の都市に「少年の街」を設定する。
【コンセプト】
オムニバスもしくは互いに直接は関連しない連作短編集とする。
濃厚なエロスやハードな描写は狙わず、「題材が特殊なだけ」のユーモアやペーソスを味とするような短編小説を書き連ねてみたい。
今も世界には、児童売春が組織的に行われているスポットが、各地に存在している。その中においてパーセンテージは低めながら、「少年専門」のスポットも、何ヶ所か実在する。
もし日本に、そんな少年売春街が存在したら……。わずかな過去か未来か、経済的に少々つまずいた日本。もしくは戦後から今のようには経済成長しそこねた日本。パラレルワールドの日本の、関西をベースにした架空の都市に「少年の街」を設定する。
【コンセプト】
オムニバスもしくは互いに直接は関連しない連作短編集とする。
濃厚なエロスやハードな描写は狙わず、「題材が特殊なだけ」のユーモアやペーソスを味とするような短編小説を書き連ねてみたい。