×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
自分は二次コン属性弱い、と思っている。ていうか実物と絵では比較の対象にすらならんわな。実際に手を触れられない対象と規定した場合も、お気に入りの子役と、アニメキャラでは比較にならない。
しかし一方、俺はマンガやアニメが好きで、子ども時代からずっとその洗礼を受けてきたので、二次元のみの存在にも、十分萌えることができる。
この「一方」を実感したのは、三次元オンリーの知り合いが増えてからだ。
彼らが数あるイラストの中で(あえて言うなら)どれに萌えるか、を聞くと、その答えは驚くほど共通している。そしてそれは、「ガイジンさん」に盗用されやすいイラとも共通しているのである。
そのポイントは「体格がリアルに描かれている」ということだ。筋肉の走りや、骨格や手足のバランスや姿勢が、リアル。ただ日本人の絵師さんの場合、これにアニメコミック的な顔をくっつけることが多いが。
俺は、これらの絵師さんも好きだが、三次元オンリーの人は、写真のトレスに過ぎず、少年の表情が死んでいても、あの人気ショタ絵師のMさんのイラより、そっちを選ぶ。
日本のアニメやコミックを、ハリウッドの有名米国人映画監督が「能や歌舞伎のような」とか表現していた。
なんのこっちゃと思う人もいるだろうが、日本人は昔から「記号化」や「予定調和」をうまく使ってきたということだ。より高度なものを目指すというより、設備や人員などのリソースの不足を、お約束で補っている内に、それ自体が昇華され様式美につながった。
能面は傾きによって、同じ面で、様々な感情やキャラクターを表す。能舞台は一種類しかなく、そこに屏風を立てたり、ごく簡便な設定によって屋敷や戸外、あらゆる場面を表現する。黒子は、見えるがいないことになっている。
テレビでも、今は黒子も釣り糸も見えないようにできる。中世の城塞都市はおろか、火星でも何なら天国や地獄だってかくあるべしの表現が可能だ。
しかし一方、俺はマンガやアニメが好きで、子ども時代からずっとその洗礼を受けてきたので、二次元のみの存在にも、十分萌えることができる。
この「一方」を実感したのは、三次元オンリーの知り合いが増えてからだ。
彼らが数あるイラストの中で(あえて言うなら)どれに萌えるか、を聞くと、その答えは驚くほど共通している。そしてそれは、「ガイジンさん」に盗用されやすいイラとも共通しているのである。
そのポイントは「体格がリアルに描かれている」ということだ。筋肉の走りや、骨格や手足のバランスや姿勢が、リアル。ただ日本人の絵師さんの場合、これにアニメコミック的な顔をくっつけることが多いが。
俺は、これらの絵師さんも好きだが、三次元オンリーの人は、写真のトレスに過ぎず、少年の表情が死んでいても、あの人気ショタ絵師のMさんのイラより、そっちを選ぶ。
日本のアニメやコミックを、ハリウッドの有名米国人映画監督が「能や歌舞伎のような」とか表現していた。
なんのこっちゃと思う人もいるだろうが、日本人は昔から「記号化」や「予定調和」をうまく使ってきたということだ。より高度なものを目指すというより、設備や人員などのリソースの不足を、お約束で補っている内に、それ自体が昇華され様式美につながった。
能面は傾きによって、同じ面で、様々な感情やキャラクターを表す。能舞台は一種類しかなく、そこに屏風を立てたり、ごく簡便な設定によって屋敷や戸外、あらゆる場面を表現する。黒子は、見えるがいないことになっている。
テレビでも、今は黒子も釣り糸も見えないようにできる。中世の城塞都市はおろか、火星でも何なら天国や地獄だってかくあるべしの表現が可能だ。
実は漫画やアニメもリソース不足の制約からくる様々な記号化を行っている。線画のみの表現や、スクリーントーンの仕様。感情を表現する顔のパーツの傾きや形。頬の赤みはテレや怒り。額の汗はあせり。ぐにゃぐにゃ線は震え。
実際の人間の動きや表情が、ベースにはあるが、今の漫画の表現は、もはやそれとは乖離したところにあり、すでに漫画の洗礼を浴びてきた人だけに通じる表現も、多々見られる。
スタートラインが、限られた納期に限られた人員で多数の絵を上げる必要に迫られたところからきたものであったとしても、これらはすでに様式美。これが能や歌舞伎と共通する、といわれた所以だ。
アメリカのアニメが、すでに過去の制約を脱した様々な技術を投入してリアリズムを追求しようとしているのに、日本はそうしない。技術は一つの手法として、取り込むが頼らないという姿勢だ。
これは日本のアニメコミックの作り手の意識の高さという一面もあるが、日本の消費者が悪く言えばこれまでの記号化に根深く「毒されている」といった表現も可能だろう。
ま、俺としては二次元記号を理解して、アニメコミック的予定調和を楽しめるのは、能や歌舞伎を解するがごとく現代日本人のたしなみと思ってるし、第一これを楽しめないのはずいぶん損だ。ただ、やっぱり予定調和的記号を楽しんでいる自覚は欲しいと思うな。無自覚に自動変換してると、「毒されてる」と言われても仕方がない気がするし、小学校の写生の時間に、マンガみたいな絵を描いちゃうことになるわけ。
一方で人の表情が死んでいる(顔だけの意味じゃなくね)トレス絵の方に反応するってのは、絵心自体が全くないということ。写真でも見てらっしゃい、となるね。
で、この絵は、写真見て描きました。前から背中の筋肉の動きがきれいだなあ、と思ってたやつで、その筋肉の動きや、骨格の練習にと思って。子ども相撲でまわしを巻いてもらってるところですな。
実際の人間の動きや表情が、ベースにはあるが、今の漫画の表現は、もはやそれとは乖離したところにあり、すでに漫画の洗礼を浴びてきた人だけに通じる表現も、多々見られる。
スタートラインが、限られた納期に限られた人員で多数の絵を上げる必要に迫られたところからきたものであったとしても、これらはすでに様式美。これが能や歌舞伎と共通する、といわれた所以だ。
アメリカのアニメが、すでに過去の制約を脱した様々な技術を投入してリアリズムを追求しようとしているのに、日本はそうしない。技術は一つの手法として、取り込むが頼らないという姿勢だ。
これは日本のアニメコミックの作り手の意識の高さという一面もあるが、日本の消費者が悪く言えばこれまでの記号化に根深く「毒されている」といった表現も可能だろう。
ま、俺としては二次元記号を理解して、アニメコミック的予定調和を楽しめるのは、能や歌舞伎を解するがごとく現代日本人のたしなみと思ってるし、第一これを楽しめないのはずいぶん損だ。ただ、やっぱり予定調和的記号を楽しんでいる自覚は欲しいと思うな。無自覚に自動変換してると、「毒されてる」と言われても仕方がない気がするし、小学校の写生の時間に、マンガみたいな絵を描いちゃうことになるわけ。
一方で人の表情が死んでいる(顔だけの意味じゃなくね)トレス絵の方に反応するってのは、絵心自体が全くないということ。写真でも見てらっしゃい、となるね。
で、この絵は、写真見て描きました。前から背中の筋肉の動きがきれいだなあ、と思ってたやつで、その筋肉の動きや、骨格の練習にと思って。子ども相撲でまわしを巻いてもらってるところですな。
PR