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おもに少年愛と小説に関する雑記。エッセイとコラム
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耽美と露悪
ふい、忍者システムやっと復活。バックアップとらにゃ
 
 創作においてリアリズムというのは、どうしたって一定大切なものであると思う。物事の実像を細かく正確にとらえて表現しないと、何か幼稚なものに仕上がるのは避けられないからだ。これはたぶん絵でも同じじゃないかな。

 でもただリアルなだけじゃやっぱりつまらないっていうアンチテーゼもある。
 俺は推理小説ファンなんだけど、社会派系列は嫌い。松本清張以外はほとんど評価に値する作品を知らない。社会悪を抉ってバッドエンドって、カタルシスを得るためにこっちは小説読んでるのにね。マゾじゃないっての。
 それ故に人物のディテイルが甘くても、絵空事でも、横溝正史が一番。島田荘司、綾辻行人。ミステリは夢でしょ。

 純文学では、三島由紀夫はやっぱり至高。彼がすごいのは、実際には醜いかもしれないものすら、(実像を誰よりも抉りながら)美しく描くことだ。「春子」のレズビアニズム。「禁色」ではかなりきわどいが「仮面の告白」の男色。ことに男色やナルシズムの彼の理解はかなり深いものと思うが、もしかしたら実際は吐き気を催すようなものかもしれないものを、彼は美しく描く。そしてリアリズムや精緻な観察眼は忘れていない。

 重松清の「疾走」のような露悪趣味は、これらと好対照をなす。実像をとらえず、ただ刺激を求めて汚らしい表現をし、そのインパクトで読者をとらえようといういじましさ。それでいて自分は健全な価値観を背景にしているという潔さのかけらもないポーズ。自覚があればたまには自己嫌悪に陥るだろうが、たぶん鈍いのだろう。

 偽善や虚像がもてはやされ批判しにくいムードと、表現にモラルをかぶせないと「表」現なのに表に出しにくい鬱屈したムードが、今はメジャーな表現のステージに満ちているように感じる。
 それ故に、サブカルや地下表現が無限に広がっていくのだろう。この世界はインターネット同様玉石混淆で9割は「石ころ」かもしれないが、自分にとっての「宝石」はたぶんここにしかない。

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