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おもに少年愛と小説に関する雑記。エッセイとコラム
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表現規制についての考え方
 この際だからまとめておくぞ。

 まず、
 実行方面は論外。論外というのはいけないとかじゃなくここでは論の対象にしないということ。
 次に
 三次元(被写体がいる写真、動画、ビデオ)も論外。次元が違う。話がややこしくなる。なのに一緒にする人が多いため。

 まず、勝手に絵を描くとか、文章書くとか、その次元において何かを禁止する権利は、何人にもない。うんこ食おうが親殺そうが、幼児に精液ぶっかけようが勝手。不快に感じるのもやむをえないし、勝手。これを禁じるのは他人のオナニーのおかずに口出しをするということになる。
 これには百人中九十九人は賛成しそう。

 しかし表現というのは、人に見せるものである。しかも相手は不特定である。ここに、規制の必要性や公の介入の口実が生まれる。

 しかしテレビのように、「見たくもないのに見てしまう」ものではなく、成人指定があり、金を払い、見たい人だけが見る表現物に、規制など必要なのか、あるいは、許されるのか。

 俺の考えは全てにおいてNOである。最初にややこしくなるものは除外した。従って絵や文章の話だ。
 対象が大人だろうと子どもだろうとレイプも殺しも倫理的にも刑法上も許されない。見た者が悪影響を受けるというなら、それは性的なもののみならず、犯罪翼賛的なものや自殺肯定的なものは、全てよくない。児童ポルノだけを特別視する根拠は、どこにもない。
 さらに、暴力や過激な性表現が、人を実行に駆り立てる悪影響を与えるというデータはなく、これは将来も絶対に証明されることはない。実験室的データは、この場合無意味で、また実社会の調査では多様すぎる他要因の影響を排除できないからだ。俺は実際は多少あると思っているが、それはしょうがないんじゃないか? 親の一言でグレることだってある。多少ってのはその程度の意味。それをもってあらゆる表現を規制するか?

 提供する側と受け止める側の利害が一致し、(現実に生きる)誰も傷つけない表現活動を、規制する権利など誰にもない。

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 ただし、出版社、メディア、プロバイダなどにはそれぞれの立場やカラーがある。だからうちではこの本は出せません、うちの鯖ではそのHPは困ります。うちの決済じゃ過激な性表現ものは販売しないでほしいんです、っていうのは、仕方がない。
 だからほとんどあらゆる商業媒体から、「児童ポルノ的表現物」が消えるのも仕方がない。
 でもそれと、「お上が規制するからダメなんです」とは、エラい違いなのだ。根本的に違う。

 実害が一切証明されておらず、利害の一致した者同士がやりとりする表現物に対する規制は、人の寝室に侵入してオナニーのおかずを取り上げるのと同じだ。内心の自由に対する権利侵害である。線引きの問題ではなく、規制すること自体が、許されない。
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