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おもに少年愛と小説に関する雑記。エッセイとコラム
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アソビが必要
 「母をたずねて三千里」しょっぱななのDVDが宅配レンタルで届いたんで、鑑賞。
 まあまだ丁寧に見たのは二話だけだし、Wikiに書いてあるような「人の優しさ」とかいう説教臭いメインテーマには特に興味はないので、そういうことはここでは特に述べる気はありません。

 ただふと、思ったことが。というか、普段から感じてることを、再認識したというか。
 それはね、当節、
 「息苦しくないか?」
 ということなんです。

 マルコ君は、母親を迎えに行きたいがために、学校が終わったあと仕事をします。大人も、それを好ましいことと考えている。父親も「勉強があるしなあ」と言いながらそれを許します。マルコが「勉強もちゃんとやる」と言うからですが。
 そのうち、思い詰めて「学校にも行かないで朝から働く」とか言い出すんですよね。

 今の日本で、これ、可能でしょうか?
 実は子どもが働くことそのものは違法でないですが、「酷使」あるいは、利潤を得るための使役、賃金労働は違法です。きっちり法律チェックしてないんで、間違ってたらごめんなさい。
 八百屋さんが、息子に仕事を手伝わせるのはありです。子どもの教育という義務、その他の権利を冒さず、児童の使役によってそうしないと得られないような利益を追求しなければです(無賃労働や弱者故の強制などによって利益を得ることですね)。

 実際の現象として、ほとんど働く子どもって見かけません。小学校高学年ともなれば、そもそも学習塾やらなんやら、忙しくて余計ね。

 子どもが働く世の中って、そんなに悪いでしょうか。児童労働、なくすべきものでしょうか。

 子どもが働かざるを得ない、子どもも働かないと飢える、まして家族を売らねばならない、といった社会構造のステージは、乗り越えるべきもので、そこへ戻りたい、戻るべきなどとは思いません。
 そして、子どもが働くことなく、誰も飢えない世の中は、大変素晴らしいものです。日本は、少なくともそこまではたどり着いています。日本では無力な子どもも、老人も、全く動けない病人や障害者も、飢え死にしようとしているのに放置されることはありません。犯罪や虐待の被害者の場合や孤独死は、あくまで例外的なケースです。
 この点で日本の経済成長を否定する気はさらさらありません。

 しかし得るものがあれば失うものがあるということなのか、今の豊かさのために、本当に必要な「犠牲」なのか、わかりませんが、

 息苦しい

 と思うのです。
 子どもを働かせれば犯罪です。おいそれと「ちょっと手伝ってくれないか」なんて言えません。
 意思ある子どもが、「小遣いをためてしたいことがあるから」午後から学校を抜けたいんです……言えますか? そして言っても通りませんし、実行すれば不良少年ですし、午後一、どこかでバイトしてたら雇い主ともどもお縄です。

 逮捕するほどのことですか?
 たしかに慎重さは必要です。重大な人権侵害と背中合わせ。
 しかし、何も頭に入っていなくても教室のイスに座らせていれば保護の責任と教育の義務を果たしていることになるってのは、大人の逃げ口上じゃないんでしょうか。
 他に子どもがしたいこと、もっとその子のためになることがいっぱいあるのに、ルールでがんじらめにして、何も選ばせない。ストレスいっぱいだったら、とっとと下校して空気のいいところで遊んだ方がいいかもしれない。絵を描いたり、本を読んだり、楽器の練習でもした方がいいかもしれない。大人に混じって働くのも、それはそれでたいした勉強ではないんでしょうか。

 実際のイタリアの100年前がどうであったかは別にして、船の中で働くマルコには、周囲の大人達が格別のいたわりを見せます。マルコもそれに応えようとする。
 小さきもの力弱きものと、生業という真剣勝負の中関わることで、大人達にもいたわりや優しさが生ずることもあるかもしれない。またそもそも、子どもが混じっている中でそうそう、労働者に非人間的な扱いができますかね?
 「君の代わりなんかいくらでもいるよ」「土下座して謝ればおいてやるよ」
 小さな子どもの前でこんな言葉、己の醜さで己を刺すような行為であって、やる人はやるでしょうが、今のようにありふれた光景たり得るかどうか。

 飢え死にはもちろん、風雨もしのげない暮らし、たかが盲腸で死ぬ暮らしには、僕も戻りたいと思わないしもう戻れない。そして戻っても、失ったものが返ってくるわけではない。

 しかし今の豊かさ、便利さ、社会福祉、医療――そうしたものを維持するのに今の窮屈さ、本当に必要な犠牲なんでしょうか。
 しかも最近、そのような豊かさの恩恵、社会のステージの発展度は、むしろ後退してるように思えるのに、息苦しさ倍増す感覚は、気のせいでしょうか。

 多様な生き方や、時間の過ごし方、価値観を、ふところ広く受け入れる社会へのシフトを夢見ます。
 それは何かを失わなくても手にできるもののはず。新しい技術も、過酷な労働も必要ない。利益のプールが必要な発展ではないからです。人のこころの問題ですからね。だからこそ難しいし無意味に逆行している現実があるのでしょう。

 アソビのない機械はコントロールしにくく、すぐに故障します。車のハンドルやブレーキしかり。あらゆる機械、ネジといったものには、動かしてすぐには反応しないアソビが、必ず組み込まれているものです。

 ニンゲン様にこそ、人間社会にこそ、アソビが必要だと思うんですよ。


サンスター健康道場 薬膳 五穀のごはん

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