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おもに少年愛と小説に関する雑記。エッセイとコラム
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あとは入稿を待つばかり
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 一応売り物の挿絵なんで携帯サイズで。原稿チェックもあとわずか。でも直し出るんだよなあ文章。直すのがまたこわい。行ズレとか、間違って文字消し過ぎとかやりかねんし、ドラフトで紙に出したのをみてるけど、今回直したのはもう出力はしないし(だって240Pですからw)。

 でもまあ、200P近くまできました。あまり見直すと表現そのものに手を加えたくなってしまうので、これが最後まで終わったら目をつぶって入稿したいです。

 ……雨降りが多いのもありますが、こういう作業に没頭して、ほんと外に出てないな。世の男児の安全のためにはいいのでしょうがw


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 無関係ですが勘違いしてる人がいるみたいなんで、いくつか誤解を解いておきます。

 食うための書き物と、作りたい書き物がズレるのは当然のことで、創作物としての自己満足度や完成度は、自分の中では後者が勝ることは当然です。
 だいぶ遠慮して赤字ですよ職業作家なんてとてもと言ってきましたが、ボーイズラブ市場でなら僕、作品投入数を増やせば、それだけで食える収入は得られるんです今でも。それオンリーでやってる人と同じ水準で売れ行き順位争ってますしね。作品投入数が足りなすぎますが。子ども部屋がらみ落ち着いたら、BL市場の盛り上がりが今まで通りなら収入は三倍に増やせます。
 ナメたこと言われたんでそこはちょっと言っときますね。でも書きたいものが他にあり寝たい遊びたいそこまでやらなくても食えている。あるいはもっと金にならないものに書きたいものがあるので、そこにエネルギーを割きたい。とりあえず食えてるし。
 これが傲慢な勘違いや逃げですかね。ヤクザな俺だなとは思いますが、勘違いや尊大さとは違うと思いますね。
 でね、あるジャンルでプロの水準を超えれば、つぶしはきくもんで、別ジャンルでもそれなりに書ける、と言ってみても勘違いではないと思うんです。ショタ漫画専門ぽい人で、炉で描いてる人も多いでしょ。

 僕の言うプロは「文章で食えている人」。月収二十万以下の貧乏漫画家もプロという意味においてです。作品の質は、必ずしも売れてるかどうか賞を取ったかどうかと関係ないしね。
 だから有名なプロとでも互せるというのも、別にそんな、傲慢ではないと思う。

 あとは先日書いたように、僕は「有言実行」にあこがれるから、大きなことを言うんです。そういうの嫌いな人には嫌われ痛がられ笑われることを、糧にするんですな。言ったからにはやってやるぜと。

 よりよいものを書くか、より文章でたくさん稼ぐか、先の進歩のために気合いを入れております。

 それから僕は議論が大好きです。

 サイト開設の目的の一つは人との関わりのためですが、ちやほやされたい(いやそれもうれしいですが)ためではない。少年愛、文章、創作、同人、そうした共通のキーワードで、関われる人の様々な考え方を聞き、時にはけんかになりそうなほどの議論もまたよし。
 無意味な誹謗中傷と議論は全然違うし、僕は根拠のない悪口や誹謗中傷などはしない。いや間違ってしてしまうことはあるかもしれないけど、それは本意ではなく、しでかしたと自覚したら謝罪も改善もします。
 大概の場合、根拠のある批判・意見であることがわかっていただけるはずなんですね。そのために細心の配慮を払っていても「嫌われた・侮辱された・切られた」と受け取られる方が時々おられ、最近の若い人は議論が苦手なのかしら、とか年寄りくさいことを考えたりするのです。

 さらにつけ加え。
 計算力や語学力のようにテストがあるものと違い、文章や絵の力量なんてものは、きっちりした尺度はありません。
 他者の評価や稼ぎが、絶対基準であるはずなどないのです。そう、最終的には自分しかない。その自分の評価基準の客観性の根拠を、僕は多くの玄人との関わりと、読書量、アート、アート批評に触れてる機会の多さからある程度あるとこの前書きました。
 それ以上どうしようもない。それよりも芥川賞が上で客観的なんてことは、あり得ないんですよ。新潮社や講談社や文藝春秋社がなんかすごいと思い込んでるんですかね。フランス書院も辰巳書房もなんも変わりませんよ。
 まして稼いでる人ほどランクが上ですか。つげ義春大好きでファンも多いと思うけど、本人にどれだけ金行ったかな。
 成功するかどうかとも関係ない。尾崎豊の一時期の音楽は素晴らしかったけど、晩年は不幸で死に方もひどかったですね。
 まず自分の目でしょう。それを高評価することは、別に間違っていない。他の人が見て余りに実力と乖離していると痛いのです。しかしその実力は、賞を取ったか金になったかと関係ない。他の人の場合もその人が読んで、どう思うかだけが唯一の基準だから、一本も売れてなくても構わない。「プロになったこともないのにプロ並みと語る」ことは全くおかしくないし、それを根拠に傲慢とか厚顔無恥とかいうのはズレてるのもいいところ。プロや賞に価値置きすぎです。社会的権威に感性が毒されているのです。借り物の尺度なんですよ。

 自分の価値観でモノを測れないのは独立した個人ではない。コントロールされた社会的単位に過ぎないのです。あるいは、未熟な子どもか。

 ちなみに僕が一番うれしいのは、僕が好きな、僕が尊敬する作り手さんに褒めていただいたときです。やりたいことがわかってもらえたり、価値観が響き合ったり、意外な自分を見つけてもらえるから。この交流が最高の喜びであって、金や名誉(社会的評価、プロ扱い)に遙かにまさります。ま、金や名誉だってほしいですけど。
 実際に多く言葉をかわしたり、作品を読ませてもらった人の言葉こそ、僕には価値がある。偉い人の言葉や権威や賞なんか、それに比べればものの数ではない。まして金もね。だからそうした信頼と尊敬をする人達の言葉を吸収して、僕は僕の価値判断をし、芥川賞だろうが重松だろうがこきおろすのです。借り物の尺度しか持たない人間とは違うし、借り物の尺度を使わないことを厚顔無恥などという幼稚さは問題外。
 そしてまた、己の尺度を持つ人とぶつかって、共感したり論争したりしながら、磨かれたいのです。
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