忍者ブログ
おもに少年愛と小説に関する雑記。エッセイとコラム
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

バカにつける薬なし
 某ショタ絵描きのブログ。
 「なぜ働かなければならないか」という問いを立て、
 「誰かが農産物を育て、家を建て、服をつくるから、人々の生活が成り立つ。労働は人々の相互の助け合い。それを否定するなら、服を着るな、ものを食うな云々」と述べる。
 「世のニートよ、あなたの力も世の中に必要だ」と。
 現役の小学校教師らしい。なるほどわかりやすい。そして極度に愚劣だ。

 今の社会はそんなに理想的にうまく機能しているのだろうか。そして原理原則からごぼれるものこそ異分子で、その一部は社会的弱者ではないのだろうか。社会の矛盾やきしみを見ず、いやもしかしたらそれを見抜く眼力も感性もない人間が、小学校の教壇に立ってものを教えているということは、おそろしい。

拍手[0回]

 労働が相互扶助として順調に機能し、何の問題もなく社会を発展させているのだとしたら、一日十二時間働いて食うや食わずの人間と、一生働く必要のない資産を持ち、パソコンで金を右から左に動かすだけで、それをますます膨らませている人間が、同じ国に併存しているのはなぜなのか。競合する企業はまだしも、一丸となって共通の利益に向かうはずの同一企業内で、食い合い、消耗し合って、過労死や鬱病が続発する現状はなぜ起こるのか。

 生き抜くことは厳しい。さまざまな矛盾を乗り越え、理想を失わず職業的生命をまっとうするには、大変な努力と知恵と、持って生まれた能力や健康な肉体が不可欠だ。
 人は弱く、欲望に流されやすいため、傷つけ合い、その人々がつくる社会は、理想にはほど遠い。日本はこれでましな方だ。五歳に満たず栄養失調で死に、十歳に満たず口減らしのために売られる子どもに、序段のような夢物語を語ってみるか。生まれ変わったらそういう世界に、とでも言うかも知れない。説教で言ったら、刺されるだろう。

 大量の余剰生産物が世の中を複雑にしている。必ずしも幸福にはしていない。働いて生き抜くために、人を傷つけ理想に目をつぶる苦しみを味わうくらいなら、最初から社会に出ない方がいいという考えには、一面の真理がある。それでも死なないのだとしたら、これは立派な選択肢だ。ただし彼らの大半も、飢え死にが間近に迫れば、きっと働こうとするだろう。
 多くの人は、生きるために折り合いをつけて、様々な矛盾や、不当や、苦しみを飲み込んで働いている。一生食えるだけの貯金ができれば、仕事をしないという人はかなり多いだろうし、するにしても、きっと一生食える見通しがない時とは、働き方が根本的に異なる。一年に二日しか我が子に会えない単身赴任を受け入れるか。嫌がらせ人事を黙って受け入れ、サービス残業を嬉々としてするか。同僚を出し抜くために真顔で嘘をつくか。もしするという人がいたとしても、それは狂っているだけだ。

 序段のようなことを真顔で言う人間は、極度に鈍感か、嘘つきかのいずれかである。一緒に仕事をするのは、食っていける貯金があれば、俺なら絶対に避けたい人種だ。自分が小学生だとしても、こういうやつのいる教室にはいたくない。
PR
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Comment:
Pass:
トラックバック
この記事のトラックバックURL

この記事へのトラックバック