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おもに少年愛と小説に関する雑記。エッセイとコラム
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アップダウン
 上がりきらないですねえ。一日一杯、やたら仕事だ部屋片付けだと、はかどったと思ったら次の日は一日の大半ぐったり、みたいな。
 しかし月初め頃の、苦痛やしんどさはないので、回復基調は続いていると判断しておきます。

 ええと、長らく音信はなかったものの、かつてお祭り撮影旅行にも連れて行っていただいた、ショタの同人さんが、ごく最近、亡くなったそうです。自殺らしいです。その方のmixiの最後の日記は、ずっと鬱か何かだったのが「僕にも太陽が昇ってきたみたいです」で結ばれていました。僕は、気づいたら泣いていました。
 それほど親しかった人とは言えませんが、身につまされたんですよね。

 鬱病の回復期は、自殺の危険が非常に高くなります。鬱が重いときは活動性も抑制されており、要するに死ぬ元気もない。それが元気になり、再び暗い影が射して絶望感を感じた時には、衝動的に一線を踏み越えるエネルギーが、あいにく残っているのです。そういうときに、「がんばれ」の励ましは、逆効果のことが多い。危険は予測可能で、誰かがそばにいれば、防げたかもしれない。本当の太陽にたどり着けたかもしれなかったのです。それを思うと、いたましくていたましくて、他に言葉もない。

 僕は長らく、鬱病の薬を処方してもらっていますが、実際は睡眠障害と自閉傾向が強くて、憂鬱気分は、周期的にたまに、訪れるだけです。最近ではこの月初めです。薬を飲んでるおかげか、自殺衝動に至るほどの落ち込みは長らくないですが、完治の見込みも全くありません。おそらく活動性の低下が進み、早い内に老人のように一日の大半を寝て過ごすようになり、知的能力を失っていく、という可能性が高く、要はこれをいかに引き延ばせるか。60過ぎて老人のようになるなら、まあ当たり前ですからね。そんな状況です。
 幸い僕は、スポーツ好きでもなく、知的能力、言語能力と、今は絵を描ける程度の手の巧緻性が保たれれば、生き甲斐はあるので、完全な健康を望んで現況を嘆くこともないです。

 それでも、これまでに二度か三度、死にたくなったことはある。
 でも、一線を越えるときの人間は、やはり狂っていると思います、あるいは、心が、壊れている。本能的に死ぬのは怖い。すごいエネルギーがいります。冷静な判断の結果死を選ぶなんて、人間にはたぶん無理でしょう。

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 しかしインフルエンザの薬の副作用程度で、高所から飛び降りる人間が出るのです。誰にでも「魔が差す」危険はあります。僕のように臆病な人間は、元気なときに病気のことを医者以上に調べ尽くします。喘息が重篤化して薬漬けになった際は、全ての薬について、本で調べましたし、抗鬱剤も鬱病のメカニズムも自殺へのメカニズムも、調べ尽くしています。だから危険を事前察知し、病気をコントロールできます。ある程度。なので危なくなると、それなりに避難行動を取ります。今のところ、取れています。

 正直なところ、死に勝る苦しい生もあるかとは思うので、誰にでも死ぬなと無責任には言えないと僕は思っていますが、例えばこの世に一人でも心結び合う人間がいるなら、生きる価値がないなんてことはないし、何より死ねばもう、やり直しはない。
 一瞬の衝動をこらえて、一日辛抱できれば、やっぱり生きてみようと思う人が、大半ではないかと、僕は思いますね。
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