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おもに少年愛と小説に関する雑記。エッセイとコラム
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子どもは変わったか
 たまには至ってまじめな話を。

 夕刻、近所を散歩していて、小学校のそばを通ったとき、 
 「すいませんボール取ってください!」
 と男の子の声が金網の向こうから飛んできたのだ。ゴムの小さなボールを、拾って金網越しに投げてやる。
 「ありがとうございました!」
 とちょこっと頭を下げる阪神帽をかぶった四年生ぐらいの男の子。これだけのやりとりでも、ちょっと幸せな気分にはなる。

 二人でキャッチボールをしていた。彼らはボール一個で暗くなるまで遊ぶことができる。

 テレビや、ビデオゲームなどの害が叫ばれたり、子どもがキレやすくなったとか、外で遊ばなくなったとか、ショタコン的に言えば、かわいげがなくなった、「子どもらしさ」がなくなった、というような言い方を、されることがある。

 しかしいつも、俺は生身の子どもに触れるたびに、そのような見解に反感を覚える。
 戦時中の子は知らないが、俺が少年であった頃からすでに四半世紀が経っている。そことなら、自信を持って比較できるが、本質において子どもは別に変わっていない。魅力も、そのままだ。

 テレビっ子は俺ら子どもの頃に生まれた言葉。
 「テレビばっかり見ていると、今に尻尾が生えてくる♪」である。
 ファミコンの登場が中学生時代。バイオレンスな北斗の拳の流行は高校生時代だ。

 その間、子どもの空間に生じた大きな変化は、こうしたビデオゲーム、漫画文化という側面と、今一方、戸外の遊び空間の減少がある。
 俺が小学校の頃は、空き地や休耕田で、草野球や犬の散歩ができた。それが中高の頃には、ものの見事にマンションや駐車場に全て姿を変えていた。公園も野球禁止だ。河川敷くらいまで、自転車で走らないと野球なんてできない。勢い、子どもは軟球すら握らないのだ。塾通いも増えている。
 遊びが夜型やインドア型にシフトするのも、仕方がない。大人が作った環境のせいである。子どもが選んだのではないのだ。ゲームや過激な表現物そのものにケチをつけたり規制するのは、お門違いだ。

 放課後開放されている学校の校庭や、児童館で、子ども達は失われた環境の穴埋めをしている。軟球は使えないがキャッチボールはできる。
 先述の通り、仲間とボール一個で、暗くなるまで遊べる子は、いまでもいくらでもいる。仮に突然DSがなくなっても、子どもは困らない。一人だけなくなると困るのであって、みんななくなればどうってことはない。必要なのは仲間と場所と時間だ。

 メディアに毒されて、逆行に耐えられないとすれば、それは大人になってしまって、しなやかさを失った者の方ではないだろうか。

 また一方、いかに過去子どもが純粋で美しかった時代があったか知らないが、逸脱行動は常に存在した。まわりのペースに合わない変わった子も、一定数必ずいたのである。

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 自分たちがしでかした罪を精算することなく、特殊なもの、逸脱したもの、主観的に不快なものを、切り捨て、規制し、白眼視する風潮は、大人子どもの別なく、不器用でうまく社会に「迎合」できない人間を追い詰める。

 そのことこそが、子どもも大人も、人をキレさせ、容易に極端な逸脱行動に走らせ、社会に絶望させ、復讐心を喚起させる。
 一部の子どもの逸脱行動が先鋭化して映るとすれば、要因はこれだ。

 大多数の子どもの本質が変わっていないという認識、その意味で過去も過度に美化された幻想のような子ども(集団)は存在しなかったという認識、自分たちがマイノリティであればこそ逸脱した美しくはないかも知れない子どもの心に何かを感じ寄り添いたいという思い。
 そうした思いを大切にし、愚劣な一般常識に対峙したいのである。
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コメント
この記事へのコメント
blog見ました。
とりあえず、同感したのでレスします。
2007/12/21(金) 02:01:23 | | さすらいの18歳 #92c7461399[ 編集]
無題
どもです^^
一言でもうれしいので、これからもよろしくお願いしますね。他のシャイな読者の方もw
2007/12/21(金) 05:18:02 | | とりさん #5611fda99b[ 編集]
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