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ニュースより
ネット記事はいずれ消えてしまうので丸ごと転載する
9歳男児、数年前から不明 府警が捜査開始…大阪・富田林
大阪府富田林市で男児(9)が数年前から行方不明になっていることがわかった。小学校には全く登校しておらず、親族も同市に「所在がわからない」と説明するなど安否が確認できない状態が続いているという。府警は、男児が事件に巻き込まれた可能性もあるとみて、男児の行方を捜すなど捜査を始めた。
関係者によると、男児は2002年秋、富田林市内で生まれた。間もなく両親とともに同府太子町に転居し、04年、再び同市に戻ったとされる。その後、両親は離婚。父親は地元を離れ、母親は1人で府内の実家に帰ったため、男児は同市内に住む父方の親族宅に住民登録された。
ところが、同市教委によると、男児は09年4月、小学校への入学時期を迎えたものの、一度も登校せず、教師らが何回か家庭訪問したが、男児には会えなかったという。市教委は翌春、国の通達に基づき、「居所不明児童」として学齢簿から男児を除いた。
さらに、親族が昨年8月、国民健康保険料の納付を巡って市役所を訪れ、職員に「保険料に加算される世帯人数から男児を外してほしい」と要望。男児については、「ずっと前からいない。居場所も知らない」などと話したことから、市が府警に相談した。
府警が調べたところ、生後間もない頃の男児を見たという住民はいたが、数年前から一切目撃されていないことが判明。周辺の児童養護施設などに預けられた形跡はなく、太子町では乳幼児健診や予防接種の受診歴もなかった。これまでに親族らから男児の捜索願は出されていない。
府内の別の場所に暮らす母親は知人に「息子は元夫の親族が引き取ったが、どこにいるのかわからない」と話していたという。
府警は、小学校入学の数年前から、何らかの事情ですでに行方不明になっていた可能性もあるとみて、男児の発見に全力を挙げる。
この事件で一番気になる点は、「行方が知れない」として騒ぎ出すのがそもそも遅すぎるということだ。
これは以前、僕が一般向け小説の中でも指摘したことだが、日本という国は戸籍のシステムが諸先進国と比べても非常にがっちりして、強固なシステムの内にある限り、義務教育は無償、飢え死にすることは能力に関わらず、またいかなるろくでなしでも、生きる意志さえあればない、という、福祉先進国だ。
だが半面、そのシステムからこぼれ落ちた瞬間に、この国ではいないも同然、福祉も教育も医療も、何も届かず、健康な大人にもまともな仕事は回ってこない。
大人はシステムの内に生きるかはみ出すか選べるが、子供はそうはいかない。
まず出生届けが出ないと、扱いとしてはこの世に存在しないことになる。これ自体は子を産んだこと自体産んだ本人や狭い範囲にしかわからないことも多く、ある程度やむを得ない。「誰も知らない」という映画の元になったケースでは、中学生の長男を筆頭に三人の子供が、誰一人学校に通っておらず、この世に存在しないことになっていた。
そしてどういうわけか、出生届があり、戸籍があるにも関わらず、学齢期になっても学校に来ない子供を、行政はとことん追いかけることをしない。
ここに「確実に日本に生まれ、日本人としての権利を有する、未熟で弱い存在」があることは明らかである。
生まれているのに、学校に来ず、家庭訪問の教師に姿も見せない。死亡したのに届けられていないか、行方不明なのに放置されているか、もしかしたら虐待され監禁され続けているのか、実の親なり保護者がきちんと説明できない以上、そこでは確実に、「未熟な存在」の人権が踏みにじられている。
小五から中三まで実の母親とわけのわからないババアに監禁され続け、餓死寸前に追いやられ自らの汚物を食い精神を病んで、二度とまともに歩いたり話したりできないかもしれない状態で、見つかった少年がいる。
彼だっていきなり学校に来なくなったのだ。どこで何をしているか、きちんと把握できているのは「保護者」だけだった。
ものも言えない赤ん坊はもちろん、監禁されている子供や、親の事情で夜逃げして行き場のない子供は、身近な保護者以外には存在すら認識されておらず、福祉も教育も医療も、何も届かない。
本来親に生活能力や常識が十分あれば、不必要なほどの社会保障メニューが用意されているのに、そういうものをもっとも必要とする子供に、それが届かない仕組みになっているのが、日本だ。
やむを得ないケースもあるだろうが、今回のニュースの子や、五年間監禁されていた子のケースは、行政なりが本気で、「見えない弱い存在」の命や人権を守ろうとすれば、何とかなったはずなのだ。九歳になるまで、誰にも存在を認知されないなんて……。
それほどにコストと人数の必要なことだろうか。例えそうだとしても、やるべきことではないのだろうか。可能なことではないのだろうか。システムの枠内の人なら、一人死んでも大騒ぎする日本なのに。
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9歳男児、数年前から不明 府警が捜査開始…大阪・富田林
大阪府富田林市で男児(9)が数年前から行方不明になっていることがわかった。小学校には全く登校しておらず、親族も同市に「所在がわからない」と説明するなど安否が確認できない状態が続いているという。府警は、男児が事件に巻き込まれた可能性もあるとみて、男児の行方を捜すなど捜査を始めた。
関係者によると、男児は2002年秋、富田林市内で生まれた。間もなく両親とともに同府太子町に転居し、04年、再び同市に戻ったとされる。その後、両親は離婚。父親は地元を離れ、母親は1人で府内の実家に帰ったため、男児は同市内に住む父方の親族宅に住民登録された。
ところが、同市教委によると、男児は09年4月、小学校への入学時期を迎えたものの、一度も登校せず、教師らが何回か家庭訪問したが、男児には会えなかったという。市教委は翌春、国の通達に基づき、「居所不明児童」として学齢簿から男児を除いた。
さらに、親族が昨年8月、国民健康保険料の納付を巡って市役所を訪れ、職員に「保険料に加算される世帯人数から男児を外してほしい」と要望。男児については、「ずっと前からいない。居場所も知らない」などと話したことから、市が府警に相談した。
府警が調べたところ、生後間もない頃の男児を見たという住民はいたが、数年前から一切目撃されていないことが判明。周辺の児童養護施設などに預けられた形跡はなく、太子町では乳幼児健診や予防接種の受診歴もなかった。これまでに親族らから男児の捜索願は出されていない。
府内の別の場所に暮らす母親は知人に「息子は元夫の親族が引き取ったが、どこにいるのかわからない」と話していたという。
府警は、小学校入学の数年前から、何らかの事情ですでに行方不明になっていた可能性もあるとみて、男児の発見に全力を挙げる。
この事件で一番気になる点は、「行方が知れない」として騒ぎ出すのがそもそも遅すぎるということだ。
これは以前、僕が一般向け小説の中でも指摘したことだが、日本という国は戸籍のシステムが諸先進国と比べても非常にがっちりして、強固なシステムの内にある限り、義務教育は無償、飢え死にすることは能力に関わらず、またいかなるろくでなしでも、生きる意志さえあればない、という、福祉先進国だ。
だが半面、そのシステムからこぼれ落ちた瞬間に、この国ではいないも同然、福祉も教育も医療も、何も届かず、健康な大人にもまともな仕事は回ってこない。
大人はシステムの内に生きるかはみ出すか選べるが、子供はそうはいかない。
まず出生届けが出ないと、扱いとしてはこの世に存在しないことになる。これ自体は子を産んだこと自体産んだ本人や狭い範囲にしかわからないことも多く、ある程度やむを得ない。「誰も知らない」という映画の元になったケースでは、中学生の長男を筆頭に三人の子供が、誰一人学校に通っておらず、この世に存在しないことになっていた。
そしてどういうわけか、出生届があり、戸籍があるにも関わらず、学齢期になっても学校に来ない子供を、行政はとことん追いかけることをしない。
ここに「確実に日本に生まれ、日本人としての権利を有する、未熟で弱い存在」があることは明らかである。
生まれているのに、学校に来ず、家庭訪問の教師に姿も見せない。死亡したのに届けられていないか、行方不明なのに放置されているか、もしかしたら虐待され監禁され続けているのか、実の親なり保護者がきちんと説明できない以上、そこでは確実に、「未熟な存在」の人権が踏みにじられている。
小五から中三まで実の母親とわけのわからないババアに監禁され続け、餓死寸前に追いやられ自らの汚物を食い精神を病んで、二度とまともに歩いたり話したりできないかもしれない状態で、見つかった少年がいる。
彼だっていきなり学校に来なくなったのだ。どこで何をしているか、きちんと把握できているのは「保護者」だけだった。
ものも言えない赤ん坊はもちろん、監禁されている子供や、親の事情で夜逃げして行き場のない子供は、身近な保護者以外には存在すら認識されておらず、福祉も教育も医療も、何も届かない。
本来親に生活能力や常識が十分あれば、不必要なほどの社会保障メニューが用意されているのに、そういうものをもっとも必要とする子供に、それが届かない仕組みになっているのが、日本だ。
やむを得ないケースもあるだろうが、今回のニュースの子や、五年間監禁されていた子のケースは、行政なりが本気で、「見えない弱い存在」の命や人権を守ろうとすれば、何とかなったはずなのだ。九歳になるまで、誰にも存在を認知されないなんて……。
それほどにコストと人数の必要なことだろうか。例えそうだとしても、やるべきことではないのだろうか。可能なことではないのだろうか。システムの枠内の人なら、一人死んでも大騒ぎする日本なのに。
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