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おもに少年愛と小説に関する雑記。エッセイとコラム
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小説の面白さって何よ?
 某サイトの日記に「あなたはなぜ小説を読みますか?」みたいな問いかけがあって、一瞬答えようかと思ったんだけど、フォームなどがなかったのと、質問の趣旨を取り違えてそうなので、お答えするのを控えさせていただいた。

 「あなたはなぜ小説を読みますか?」文字通りの問いと解釈するならそれは読むのが楽しいからに尽きるのだが、それでは答えになっていないだろう。そこで、この記事では「なぜあえて小説か?」というあたりに注目して考えを述べてみたい。

 テレビや映画はもちろん、マンガに比べても、小説というのは読む(楽しむ)のがしんどいように思われがちだし、一面これは真実だ。

 と、なぜここに比較対象としてテレビ、映画、マンガを出したか。それは、これらと小説に「お話を楽しむ」という共通要素があるからだ。
 本や文章のジャンルは無数にあるが、小説というのは何かを説明したものではなく、お話を楽しむものだ。題材がノンフィクションであっても、作者の意図が入っていて、ただの記録であるものは決して小説と呼ばない。お話として楽しめるように書かれたものだけを小説というのである。

 お話の楽しみ方は、昔口承に始まって、長らく文章、すなわち小説という形式しか存在しなかった。マンガもテレビも映画もこの100年の話である。意外にも映画の発展の方がはるかに早く、マンガがお話を伝える手段となって急速に発展しだしてからおそらく50年に満たない。

 マンガには絵がある。映画やテレビには実際の人物が、実際の事物が映し出され時系列にお話は流れていく。
 これらは優れた文化であり、「お話」を楽しむ手段の画期的な拡張だ。そして、疑いもなく小説を読むより「楽」だと言える。

 だが、マンガやこれら映像媒体が小説より優れた、もしくは「楽しい」、お話の楽しみ方だと言えるだろうか。
 無論個人の趣味で映画の方が本読むより楽しいわさ、という人はいるに決まっているが、これは絶対的な価値基準ではない。小説には映画やテレビなどの映像媒体、またマンガにない特徴がある。裏返せば映画やマンガが失ったものを持っているのだ。

 映像媒体は時系列で情報が過ぎ去る特性があって、過去を振り返れない。巻き戻せばいいのであるが、それは映像媒体を作った人間の意図と異なり、本のページをめくり直すのとはわけが違う。
 そして、マンガとも共通する特徴として、画像としての情報を持っているということがある。実は、これらは全て偽物なのだ。虚構という意味ではなく、偽物なのである。これは映像の場合に顕著だ。映画に映る風景や、役者は、「お話」が語る風景や人物ではあり得ない。どこかよその場所であり、他人なのだ。観る者はそれを楽しむ。監督の意図、役者の妙技で作られた虚構を味わうのだ。マンガではほぼ一人の人物の手で作られた二次元の虚構を楽しむ。本質は映像の楽しみ方に近い。ただ、時系列の縛りは存在しない。

 文章によって表現された虚構にも、無論作者の創意はびっしりとちりばめられているが、映像は存在しない。そして、ここに気づけ。小説だけが、主人公を背中から描けるのだ。映画にもマンガにも、主人公は、他の誰よりも明確な姿を持って描かれていて、誰よりも活き活きと描かれる。主人公の視線、主人公の思考、それらを、主人公の内部や背中から常時描ける媒体は小説以外にない。
 これ故に小説の持つ「感情移入度」は映画よりもマンガよりも深く独特の味わいを持っている。「深く」は主観かもしれないが……。

 そんなわけで、どれほどメディアが進歩しても、小説や活字文化は消えることはないと思うのですよ。

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