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おもに少年愛と小説に関する雑記。エッセイとコラム
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子ども部屋同人誌の挿絵うんぬん
 「子ども部屋」本編の挿絵を自力で十数枚描いて、本にするという企画を話した時に、すごく好きな作家さんで、大変な枚数なのに「僕でよければ描きますよ!」と言ってくださった方がおられました。これはすごくうれしかった。でもお断りしました。理由は後述します。

 また、その話題で挿絵原案を見せたとき「誰かに頼めないのですか、頼んだらどうですか」と言う方もいました(若干名)。絵師でない人が多いですね。

 これは受け取り方によっては、大変失礼です。僕がかなりむっとしたことは、この場で一応、書いておきます。ただもちろん、そんなつもりではなかったということとは、思っていますが。言われたその時はナーバスだったので興奮して余計なことを言わないために黙っていました。

 つまり、あなたの絵じゃ下手だから、あんまりよくないんじゃ、かえってあなたの絵ならつけない方がいいんじゃ、あなたならもっとうまい人で知り合いいるんだから、頼む方がよほどいいんじゃ、と、言ってると受け取れるってことです。
 好意的に取れば、専門でない絵でそんなにがんばらなくても、うまい絵師さんにいくらでも人脈あるんだから、そうすればもっとよいものになるのでは? あたりかと。

 絵の巧拙の基準は実に様々ですが、僕に言わせればショタ同人の中に本当に絵のうまい人は十指に満たない。順番に並べてみればこの人はうまいね、って人はもちろんたくさんいますがね。プロ漫画家のアシがつとまる程度なんてうまいうちに入らない。それは修練か才能で手がよく動くってだけの話です。もちろんそれにも価値はありますがね。
 だからうまいから頼みたい人なんて知り合いかどうか抜きにしても存在しません。

 挿絵をお願いできる条件は、親しい方かはおいておいて、まずは僕が、その人の絵や作品世界が好きかどうかです。巧拙無関係です。極端に下手だと好きにはならないだろうっていうくらいのことです。
 二点目は、その方が僕の作品(もしくは作品世界)を理解してくれるか、あるいは好きかどうかです。僕の作品に感想や高い評価を下さる作家さんはそこそこいて下さいます。
 これら二点の条件により、特に初期作品でのしんさんの挿絵と僕の小説とのマッチングをみていただきたい。
 そして「挿絵」「表紙」として他に絵を依頼した作家さんは、あとは藤々さんしかいないのです。藤々さんには、今後も実は、依頼したい作品もあるのですが……。

 その他僕の本に参画をお願いした作家さんは、全てアンソロで自由に絵を描いていただいています。これは、「僕がその方の作品が好き」「その方が僕の作品世界が好きもしくは理解してくれる」の片方の条件が合えば、ということです。あとはその作品集の傾向とその方の作風が合うかどうかですね。

 三点目。今でたやつです。いかに僕の作品を理解し入れ込んで下さっている作家さんでも、そしてその方の絵を僕が好きでも、作品と絵柄が合うかどうか、という条件があります。

 枚数が多くて負担が大きく、少しでも距離のある作家さんや、多忙な方に依頼できないという条件を抜きにしても、上記三点において、今回最善の選択は僕自身が絵を描くことだったのです。

 僕は自分が絵がうまいなどとは間違っても思いませんが、自分の作品世界を最高に理解し最高に表現しうるのはやはり自分であると思っています。
 描き上がった作品の方向性次第では、そうでない場合も多々ありますし、ある作家さんに絵を描いてもらう前提で、作品自体を構想することもあり得ます。

 しかし「子ども部屋」のような我が侭な、ある意味独りよがりな作品世界を誰が表現しうるか。ちょっと前なら、僕としても最低限のことができなかったため、何十枚かに一枚偶然、「お、いい味かも」ってのができる程度だったため最初から描こうと思いませんでしたが、今自分が描き上げるイラストというのは、「こりゃだめだ」というのを何枚も失敗して破りながら選んでいけば、やっぱり誰の絵を想定するより一番いいんですよ。

 妥協ではなく最高の選択なんです。

 わかっていただけますかな。
 それから巧拙の判断力に過信は禁物。これは僕自身もですがね。

 ちょっと音楽の話をするなら、僕の基準では最優秀歌唱賞をとった中森明菜はドヘタ。EXILEは学芸会。カラオケで声が大きかったり声が高いだけでうまいという判断をするのは鈍感そのもの。

 絵では、線がゆがんでないかデッサンがどうかよりも、問題は一枚絵の平面構成。白黒でもカラーでも、いかなる線と面によりバランスよく空間を満たすかこそセンスなのです。
人物画では定規で測って目鼻の位置や大きさがどうかなどなんの意味もない。紙を裏返してどうだというのか。指の長さがどうだというのか。いやそれも、ある範囲の正しさは必要ですが、人間は表情が何を伝えるかが鍵であり、10歳の少年が15歳の感情を持った時点で、すでに失敗なのです。いかなる正確なデッサンも無意味になります。
 肉体においては色を塗ることによって皮膚の質感を台無しにしている絵のいかに多いことか。特に少年絵においては、小麦肌も色白も、未熟なみずみずしさこそ鍵なのです。グラデがきれいでも陶器のような無機質な光沢を与えては台無しです。

 リアルに微細に、肉体を表現しているもの=うまい という観点のいかに多いことか。
 僕にとっては何の意味もありません。少年の肉体を、本当の意味でリアルに微細に表現したイラストなど、例えば今のデジケット登録作品にはただの一つもありません。匂い立つみずみずしさ、柔らかさ、なめらかさなどは、すでにデジタルである時点で微細に描く方向では限界があるのです。だから個性あるデフォルメの勝負になり、モノクロの線画に軍配が上がることも多いのです。エアブラシ的微細塗り方向でやってるものは、僕の観点では全てが失敗に終わっています。

 かくなる視点で、(これは僕だけの価値観ですがね)僕は今後も絵を練習します。競争するものではないですが、別にとてもかなわない人がたくさんいる世界とは全く思いませんね。上手下手で言えばみんな大したことない。本当にです。ただし独自の素晴らしい世界を持っている方はたくさんいて、自分も、絵でもそういうものを持てるようになれたらいいなと思います。

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