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おもに少年愛と小説に関する雑記。エッセイとコラム
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文章巷談1 まずい文章
 近頃は表サイトで一般向け小説も書き始めたりして、文章を書くのは俺の生活の大切な一側面となっている。
 自分は文章がうまいなどと自惚れたことはないが、読むのも書くのも好きだから多少のこだわりは持っている。しかるに、総じてネット小説の文章はレベルが低い。金を取らないし好む人しか読まないし、第三者の推敲は入らないしで、独りよがりになるからだ。

 これから俺の思う文章の巧拙について述べるが、それはあくまでも主観で、エロ小説を書き散らしているだけの俺の感覚だから、個人的な好みと読み替えてもらってよい。

ネットでよく見かけるまずい文章とは、
① 誤字脱字、文法上のミスが放置されている……当たり前のようだが、この水準をクリアしていないものがネット上ではごろごろしている。俺のサイト上の文章も折りに触れ見直すとポツリポツリと変換ミスなどの誤字が見つかる。しかしそういう次元でなく、固有名詞を間違って何度も書いていたり、勝手に変換してくれるはずなのに用字が間違っていたり。他によくあるのが、文章のねじれ。途中ではじめ主語だったものと違うものの行動の描写に変わっていたりだ。
 これははっきり言って恥である。無料サービスで醜い裸をネットで衆目に晒しているようなものだ。
② 客観性に欠ける……登場人物の風貌性格行動などが、作者にだけわかっていて読者に全く伝わらないもの。描写していないのだから伝わるはずがない。同人コミックのアニパロのように、TVの子役やアニメの男の子を描いたショタ小説も見かけるが、いくらその元ネタを知っている人が対象だといっても、書き手なりのその少年への、思い入れや魅力の発見がなくては小説とは言えまい。「○○が●●のペニスをくわえた」と、その組み合わせに萌えるから単にそれだけ書いたって、それはその組み合わせに萌える誰もが頭で想像できることであって、あらためて書いてあるものを読む意味はない。いかにそこに至り、どのような感情が流れ、その光景がいかなる魅力を放つか描写してこそ小説ではないか。

 以上は露骨にひどいものについて書いており、かつ特定の誰かの文章なりサイトも俺の頭にはある。嫌われるのを承知で書くのは、せっかく一面で魅力的な価値観や世界を持っており、特殊な嗜好を満足させてくれそうなのに、あまりにひどくてつっかかって読む気がしなくなるのが惜しい書き手の人が何人かいるからだ。

三つ目は、これはやはり巧拙よりは好みなのかもだが……
③ 修辞法がやたらとくどい……「体言止め」「倒置」など、ストレートな文章のリズムを崩して表現の効果を高める修辞法がいくつかある。読んでいて文章のリズムがぱっと変われば読者ははっとするわけで、特に強調したい時の他、平板な流れが続いた時にメリハリをつけるのに使うのが普通だ。古文での係り結びなどもその一つ(←これ体言止め)。
 連ねた文の半分以上が体言止めとか、読んでいて恥ずかしくなる。衒いや気取りが露骨に匂うからだ。また本人は文章がうまいと思っているかも知れないとも感じる。そればかりでなく文章を読み慣れない人もうまい文章と思っているきらいも……。

 文章から話を広げれば、中森明菜(用例が古いなw)は歌がうまいと思っている人がいたり、新聞には必ず本当のことが書いてあると思っている人がいたりする。確かに明菜は最優秀歌謡賞をもらっているし、全国紙の記者はエリートばかりだ。だからって「最優秀歌謡賞だよ!?」とか「だって新聞にそう書いてあったもん」とか真顔で言われるとこっちはひっくりかえりそうになるわけだが、案外、こういう人は少なくない。文章の巧拙の判断も……。

 となると、やっぱり俺の書いてるこれって単なる個人的な好みでしかないわけか。

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