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おもに少年愛と小説に関する雑記。エッセイとコラム
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サスケのレビュー(主にショタエロ視点以外)
では、サスケのレビューを。

 すでに書いたが、一巻の半ばまでサスケずっと全裸(笑)、それ以外にも、やたら脱ぐ。また忍者なので、縛られたり吊られたりは日常茶飯事である。ただし、絵はかわいいのだが顔も体もそんなに丁寧に描いていない(造形的にという意味、動きは豊かで、背景も含めた絵としては常に丁寧な仕事をしている)ので、ぱっと見萌えるかといえばそうでもない。俺的にはサスケに限らず白土三平の描く少年はすごくかわいいので、エロパロはいけるかもしれない。

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 物語には後のカムイ伝などに出現するモチーフがすでに多く出揃っている。歴史上の英雄や有名な人物を登場させつつも、主役、というより視点は無力の大衆である。非人やサンカなど最下層の人々の暮らし、キリシタン弾圧、狂人、物欲と金に狂う人々、残酷な処刑、そして何より、「ものを作ることが人間社会を発展させ、ものを作る人々こそ、歴史の主役である」という視点である。
 サスケの序盤の特徴は、言うまでもない忍法マンガで、荒唐無稽でありつつも、ある程度実際存在し得たかもしれないと思わせる胸躍る秘術の応酬だ。「微塵がくれ」「オボロ影」「八ツ身分身」……きっと当時の子どもが、まねをして遊んだに違いない(俺自身おもちゃの刀や手製の紙の手裏剣で遊んでいた覚えはあるw)。テレビの赤影はそもそも横山光輝の原作とかけ離れているようだが、あそこまで荒唐無稽ではなく、白土三平の描く忍術や怪現象には必ず科学的な説明がなされている(無論だから実現可能とは限らない)、子ども向けだが、大人の味のするマンガだったのだ。
 ただサスケでは、人物描写が全体に甘い。主役のサスケですら、天真爛漫な野生児というのはわかるが、つかみどころがなく、作中で一貫した個性が伝わって来ない。育った背景などを考えればもう少し味のある個性にできたのではないかと思われる。これは非人タブテや父大猿もそうだ。もっとも魅力的なのは、個人的にはサスケの中盤の宿敵四貫目である。
 そして、歴史の大きな流れの中にあって、戦えども全てを失う物語のラストも、中途半端と言わざるを得ない。
 考証をしっかりやり、リアリティにこだわるなら、序中盤の悪代官をやっつけて快刀乱麻の展開すら、不自然だ。組織に使われるのではない、時代から不要になった、それ故自由な甲賀の猿飛一族、彼らが、力なき庶民を救い、導いていく。どうせ歴史のくびきにしばられないなら、夢の多い物語のままにしてもよかったのではないか。子ども向けのはずだし。竜頭蛇尾というか、一貫性に欠けるのだ。

 忍者武芸帳では、もっとずっと、考証がしっかりしていて、大人の読者に耐える内容になってる。リアルタイムを知らないが、最初から年齢の高い読者を想定していたんだろう。
 影丸(忍者武芸帳のヒーロー。超人的な不死身の忍者)の抱く理想は、もっと社会全体に視野が行き届いており、場当たり的に人を救ったりするタイプではない。信長が着々と日本を平定しつつあった頃に、影丸、無風といった影一族の忍者が、それぞれの理想と個人の怪物的能力の全てを賭けて巨大な権力と対決する大ロマンで、サスケが短編連作であれば、骨太の長編と言える。
 主要キャラの、個人的な復讐を胸に抱き生きる者が二人、影丸の思いと行動をどう受け止めたか。金に無力な者の救済の力を見いだしていた無風は、全てが台無しになったあと、どういう運命をたどったか。人間が描けているし、サスケの忍法合戦ほどの荒唐無稽のエキサイティングな喜びはないが、忍者や侍の常人を超えたすさまじい死闘が楽しめる(絵画的意味のアクションの描写は、鳥肌もの)。個人的に忍者武芸帳は白土三平の到達点と思っている。

 カムイ伝は、もはや忍法ものではない。「白土史劇」と誰かが書いていたが、そう、江戸時代の閉塞した階層社会における様々な立場の人々が、己の夢を追い、社会構造故の限界と闘い、挫折し、そこに愛や憎しみや裏切りや闘いのある壮大な人間ドラマだ。忍者武芸帳では特に無風のキャラ設定にやや弱さがあると感じていたが、カムイ伝での「金の権化」夢屋七兵衛は素晴らしく魅力的な人物だった。
 一方この物語は、その「夢」がないのが大変惜しいところだ。無論そういう狙いで描かれたものではないからなんだろうけど。歴史を一人の力でもしかしかたらねじ曲げることができるかもしれないと思える(影丸のような)英雄は不在で、かわりに正助という知性と器で農民を導く英雄を作り上げているが、これではエンターテイメント快作は遠い。俺は忍者武芸帳の方がいい。

 余談だが、忍者武芸帳やカムイ伝を語るとき「唯物史観」について触れないわけにはいかないようだ。実際、忍者武芸帳が連載されていた時、その視点で知識階級なんかに注目されていた側面は確実にあったようだし。
 生産の向上が人間社会を発展させ、余剰生産物生み出されることによって、階層が生まれ、その階層構造は、システムの疲弊により生産の向上や社会の発展がうまくいかなくなると、衣替えを迫られ、階層構造が転換する。これが革命。
 原始共産制だの王制だの経て、衣替えの繰り返しでたどり着いた資本主義の次は社会主義だと、マルクスの本に書いてあるらしいので、これを扱っているとまるで共産主義賛美みたいに受け取られかねない。で実際、ある程度白土三平も、そっちに傾いていたきらいもある。

 しかし、白土三平は(現代から見れば)明らかにおかしい江戸時代の身分制度(生産の主役が搾取されるだけのシステム)と戦う庶民を描く一方、「生産を向上させることで人は進歩してきた」「人はものを奪い取るだけでなく作る」「病気の治し方がわかっていればこの動物を死なせずに済んだ」などと登場人物に語らせ、科学技術を含め、人類が前に進むことは否定していない。
 つまり江戸時代や戦国時代を、武将の個に視点を置く英雄絵巻ではなく、唯物史観的マクロな視点で描破したことが、彼の仕事の特徴だろう。
 いつの世にも矛盾があり、その江戸時代にも、技術の進歩はあった。ただただ民衆が苦しみ続けてきた三百年とは言えまい。白土は自分の生きた当時の社会にも矛盾や怒りを感じていたであろう。ただそれが「衣替えが必要な頃が来ている」というほど強いものであったかどうかは、はなはだ疑問だ。俺は何より「ものを作り出す者こそ歴史の主役だ」とという視点にこそ共感するし、白土作品初期からそれは一貫していると思う。彼が共産主義に傾倒していたとすれば、カムイ伝連載の一時期だけはないだろうか。

 余談だが、「もの作り」の軽視はとても危険だ。有能な者が金をつかむのはいい。しかし、タネ銭を持ちそれを株だなんだと転がすだけで豪邸を建てる人間がおり、金や土地を貸して利ざやを得るものがいる。俺の知る日本有数の日本建築をこなせる大工に今仕事はない。機械でなければ釘を打てない大工ばかりになりつつあるという。使い捨て労働者だ。修行しても、得られる金はその使い捨て労働者と同じだ。
 タネ銭のない人間は、頭にしろ手にしろ、修練の積み重ねで金を得たいところだが、そういう人間のチャンスは細る一方だ。生産と技術の軽視される社会だ。
 金を転がすのも才覚のうちというがとんでもない。貯金が100万以下の人間と、1000万と、3000万と、億。それぞれの間に「増やすチャンス」の倍率は実際の金額差のさらに100倍である。しかも実はそれを100倍に増やすでなく、毎年一割二割増やすのなら、別に才覚も労力もいらない。
 これが資本主義の現実だ。格差肯定もいいだろう。右や保守を気取って格好よいと思うのも勝手だ。俺はもう衣替えしたい気もするが、新しい服がない。共産主義は資本主義のネクストステージになり得なかったようだしな。白土作品では、その失望が、カムイ伝の凄惨な終末部に繋がったのかも知れない。
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