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おもに少年愛と小説に関する雑記。エッセイとコラム
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被虐待児童の神性

 某友人が情報下さった、最近のコミックの被虐待男児徹君。
 サイコミステリ系のコミックで幾度か男児虐待テーマのものを見たけど、線の細いきれいな子が多くて、これまでヒットしなかった。この子はかわいいけどご覧の通り丸顔で「きれい」って感じじゃなく男の子っぽいのでいい。描写、というかこの子のリアクションも比較的リアル。
 先述サイコミステリ系の一本で、男の子にとって母親が「なお菩薩だったのか」というクサイオチのものがあったが、これははっきり言って違う。違うという言い方は語弊があるかもしれないが、あえて言う。

 神性は母親にあるのではなく、子どもにあるのだ。
 大島渚「少年」での、父親に当たり屋をやらされる少年は、レントゲンで見ると新旧の細かい骨折がいくつもあった。それでも警察に親子で捕まったとき、一言も話さなかった。「鬼畜」にて弟妹を捨て、自分を崖から落として殺そうとし、逮捕された父親を、保護された少年は一言も非難しなかった。いずれもベースは実話。

 特に男の子、と言いたいが、(人間の)子どもはとても脆弱ではかなく、精神的にも肉体的にも、ある年齢までは保護者無しでは生きていけない。孤児といえども、比較的うまく(変な言い方だが本筋ではないので大ざっぱに)大人になれた人間は、必ず親を代償する存在を見つけてすがって成長しているものである。

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 この弱さと密接に結びついて、少年は全てを赦す神性を同時に抱くのである。母親の中に本能的な母性が残されているとか、父親にもわずかな良心や子への愛があったとか、そういう問題ではないのだ。保護者がいかなる人間であったとしても、殺されかけても、その人間が保護者であり、あり続けようとするならば、それを愛おしみそれを赦すのが、ある成長点までの少年というものだ。
 それが証拠に、ある時点の、独り立ちの可能性を得たとたんに、親子の間に殺し合いも辞さない憎悪が発生することがある。虐待する親から隔離され、新たにまっとうな保護者を手に入れれば、子どもは実の親など忘れてしまうのだ。

 それでも、決して少年の赦しは「利得行動」ではない。そこが神秘だ。

 そして、例え子どもが赦しても、虐待する親の醜さに変わりはなく、弱くはかなく優しく、美しい存在は「時が過ぎ去るまでの永遠」であり続ける。

 とかなんとか言いながらこっちは男の子がいじめられてるシーンに萌えてるんだけど(笑) だから特にご時世を嘆く気はない。「鬼畜」も「少年」も相当古いし、今30代の親が過去の虐待経験をリフレインするとか言われてるところを見ると、特に最近始まった病理ではないことは確かだし、ずっとこんなもんだろうね。表面化することが増えただけ相当マシではないかとも思う。

 ついでに前にも似たようなこと書いた気が……。うーん、早発性痴呆かw まあいいや。考えはいろいろ変わってるから以前と全く同じではないはずだし。
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